NFTアートに氾濫する盗用・剽窃とコーディングにおけるオリジナリティ: takawo【後編】

Interview: ucnv

Edit: Kentaro Okumura

Art________11.1.2021

takawo氏へのucnvによるインタビューの後編をお送りする。

NFTアートには素性の知れぬ有象無象が氾濫しており、それゆえに顕になっている問題もある。剽窃がそのひとつだ。後編は、この問題についての対話から始まる。


このインタビュー以後にも、Generativemasksは剽窃されている。しかし同時に、Generativemasksは所有者を結ぶコミュニティを拡大させてもいる。他者の表現への侵害あるいは尊重、そういった人間の反応のあり方は、このインタビューでも繰り返しコミュニティについて言及し思考しているtakawo氏にとって重要な問題に違いない。


インタビュアーである私は、このインタビューを行うまでそのようなことをあまり重要だと思っていなかった。しかし明らかに、NFTアートは作品だけではなく、作品をめぐる人間同士のネットワークを生み出している。言い換えれば、NFTアートは新しい人間社会を生み出しているのだ。Generativemasksの実践から垣間見えるその事実は、表現行為の未来を考える手がかりとなるはずだ。

NFTアートは芸術評価の場になり得るか。“未完”のGenerativemasksとデジタルアート・コミュニティ: takawo 【前編】

クリエイティブコーディングとライセンス

ucnv 盗用問題についても伺いたいです。takawoさんは、Generativemasksをリリースする何ヶ月か前に、作品を盗用されたクリエイティブコーダーの方の相談に乗っていましたよね。また、つい先日もご自身がその被害の対象となっており、Twitterでその様子を見ていました。NFTへの参加を決めた際、そういった盗用の危険性についてはどのように考えていたのでしょうか。また「Generative Fish」[1]などのような、あきらかにGenerativemasks以降に出現した類似プロジェクトついて、何か言いたいことありますか?

takawo 「Generative Fish」については、ucnvさんがどんなふうに見てるんだろうって気になっていたんです。あれって、MITライセンスじゃないですか。僕は基本的にクリエイティブ・コモンズのライセンスを使っているんですけど、MITライセンスの場合どう判断するのが適切なんだろうと。

ucnv 盗用されても文句は言えないですね。あと、やはりこれは特殊なケースですよ。学術論文や文章には引用ルールがあって、それを守ってないテキストは信頼に値しません。芸術の世界においてはアプロプリエーションという芸術としての盗用の形式があり、無学な盗用は芸術の歴史に則っていないとして、かなり批判にさらされるはずです。コードの世界にはライセンスこそあるものの、ジェネラティブコーディングやクリエイティブコーディングの世界と、現状あるコードのライセンスの形態がマッチしているのかは、検討に値すると思います。

takawo ソフトウェアとして考えるのか、コードと対応関係にあるグラフィックを含めた制作物として捉えるのか。そういったところでも解釈は変わってきますね。クリエイティブ・コモンズのウェブサイトには、FAQの箇所に「ソフトウェアに対してクリエイティブ・コモンズのライセンスを付けるのは適切ではない」という記述があって、そのあたりもかなり議論できるところです。法律の専門家とかを交えてやれると面白いだろうとは思ってるんですが。

ucnv ただし、今NFTアートの中で起こっているパクリ問題というのは、明らかにパクる人のリテラシーと、知識のなさからきていますよ。あるいは、リスペクトのなさ、無知からきている。テキストではテキスト自体が評価されるし、芸術の世界では作品の価値が評価されるのに、NFTアートの世界ではコードが評価されません。では視覚表象が評価されているかと言うと、それもかなり危ういところがあって、契約が成立するとか、投資対象になるかどうかに評価の比重が非常に高く置かれている。そういう評価軸に則って取引をしている人にとっては「誰がどんなコードを書いたか」なんてどうでもいいんですよね。これはマーケットの問題でもあるし、マーケットをつくっているコミュニティーの問題もあるんでしょうけど。

takawo クリエイティブコーダーの方が盗用・剽窃の対象になったことについては、日本が国際的なコミュニティーや、クリエイティブ・コーディングのシーンと接続されてないとみなされている──つまり「日本でつくられたニッチなスケッチなんて、参照してもバレないだろう」と思われている、と見ることもできると思っていて、このあたりは僕の設立したい組織のアイデアにつながっています。

NFTアートのシーンに、アートの歴史や文化に対する敬意が不足しているというのは僕も感じます。それをどうやって変えていくか。NFTアートをリリースした以上、僕はシーンと今後も関わっていくわけで、変えていく責任はあるし、伝えるべきことは伝えいかなきゃいけない。

ucnv ちょっと聞いてみたいんですけど、たとえば90%ほどコードをコピペされて、全く違う見た目のものがNFTで販売された。そういう人が現れたら、怒りますか? 怒らないですか? 

takawo 怒らないかもしれないですね。

ucnv だとしたら、takawoさんの自己評価は、出力された視覚表象にあるんでしょうか。

takawo 書き換えられたコードの分量や「文字数」で評価してしまうと……どう言ったらいいんだろうな。コードを自然言語的に扱うとするなら、一文が変わっただけで物語の印象が変わることがあり得るわけじゃないですか。だから分量ではなくて「書き替えられた内容」と「変化したグラフィック」の差異こそが、オリジナリティを認められるかどうかに関わってくるんじゃないでしょうか。

ucnv そうですね。逆に、コードはゼロから書いたんだけど、見た目が全く同じみたいなパターンもありますが……。

takawo それはそれでいい対比になるんじゃないですか。たとえば「リコード・プロジェクト」は過去の歴史的なコンピューテーショナルアートの作品を修復・アーカイブし、別の環境で書き換えるものですが、それらには(揮発性のメモリー上ではあるものの)、オリジナリティを認めることができるのでしょうし。

The ReCode Project より

Generativemasksの類似プロジェクトへの対応については、ちょっと反省しているところもあります。もちろん、これはライセンスの確認を怠った相手のミスなのですが、逆に言うと、かなりの速度で僕のコードをパクれるスキルを持ってるわけでもありますよね。その能力を活かして、こちらに何らかの形で貢献してもらうとか、コラボレーションするとか、よりよい方向にもっていけなかったのかなぁと。このプロジェクトの経済的な目的である「収益の寄付」に協力してもらえるなら、何らかの形で一緒にやる方向性を探れたんじゃないかな、とは考えます。

ucnv あれは完全なコピペではなかったんですか?

takawo 色のパレットを多少アレンジしているのと、パラメーターの数値を少し変更している程度で、基本は一緒でしたね。変更されたのは5%、いや、1%ぐらいじゃないかな。

ucnv 1%でも書き換えてしまえば、takawoさんが設定したライセンスに抵触する?

takawo そうですね。僕のコードを参照した記載もありませんでした。同じライセンスでその人にも今後コードを公開するというか、つくったものを公開するというライセンスで、そこは守られていなかった。

ucnv ライセンスの表示があれば、商用でも再販売可能なんですか?

takawo  いえ、非商用なので、商用的利用を行わず、クレジットを入れてもらえれば使えます。相手から申請があった場合に、許諾することもできます。なので、たとえばGenerativemasksのグッズを商業的に展開したいなどの場合は、チームに一回連絡してください、としています。

NFTアートのシーンには美術史への配慮とリスペクトが欠けている

ucnv 引き続き盗用問題について考えていきたいのですが、1965年に、A・マイケル・ノルというアーティストがコンピューターでつくった作品があって。

Photographic print, ‘Ninety parallel sinusoids with linearly increasing period’, by A. Michael Noll, New Jersey, 1964 /「The Victoria & Albert Museum」より

マイケル・ノルはコンピューター・グラフィックスのパイオニアのひとりで、パウル・クレーの作品をコンピューターで描き直した作品をつくったり、研究者として論文も書く人でした。[2]この「Ninety computer-generated sinusoids with linearly increasing period」というサインウェーブを用いた作品について、彼は画家ブリジット・ライリーの「Current」というシリーズを参照し「この絵画は、むしろコンピューターを用いたほうが合理的に描ける」というようなことを言っています。

ブリジット・ライリーの絵画は1964年に描かれていて、マイケル・ノルのほうは1965年につくられている。僕が気になるのは、まさに同時代の作家の絵画をコンピューターで描き直すという、無神経な在り方です。当時、両者がお互いのことをどう思っていたのか、そもそも交流があったのかは全く知らないんですけど、ともかくこういったことが初期のコンピューター・アートの世界で起こっていた。こういった芸術としての盗用を前提としていない、芸術制作と芸術の歴史に対する無神経みたいなものが、NFTアートの中でも今表れてきていると感じます。

コンピューター・アートはアートワールドのメインストリームではないから、こういうことが許されたのか。こういうことをしているから、メインストリームではないのか。ともかくこの「無知」がNFTアートに参加している人たちにあるような気がしていて。要するに、芸術の歴史に対する無学とリスペクトのなさがあるように思うんですね。

takawo 今の話とNFTアートの現状は、つながる部分がすごくあると思います。先にマイケル・ノルのアティチュードの話で言うと、彼がどれぐらい自身の作品に対してオリジナルだと思っていたか、ちょっと気になりますね。

ucnv 実際この作品はSIGGRAPHのコレクションになっていて、展覧会にも2回ほど出しているから、芸術作品だという認識はあったはずです。コンピューター・アートとメインストリームのアートワールドは全く別のものだと思っていた可能性もありますけど。

takawo この時代で、お互いが別のシーンで新しい芸術に取り組んでいた、ということであれば無邪気に参照・サンプリングすることはありえるでしょうね。ちなみに、この件は何かしらの騒動になったり、討論の対象になったんですか。

ucnv なっていないと思います。

takawo ですよね。おそらく本人もそういう問題意識はあったんだと思うんですけど、多分ブリジット・ライリーまで届いてなかったのかな。今のNFTアートの世界も、そんな感じで横行してるようなところはありますよね。プロジェクト自体が何かを参照したものだったり、キャラクターだったらバリエーションでしかないものとか。

いっぽうで、アートの文脈とは認めないけれども、たとえばゲームの世界では「ローグライクゲーム」や「ハックアンドスラッシュ」[3]のようなカテゴリから派生物が生まれた場合、プレイヤーにとってゲームが採用するシステム理解の手助けになる部分もありますよね。そのあたりの状況は違うなとは思いつつ、オリジナリティや正当性をどう主張するのか、難しい時代なんだなと俯瞰しています。

メディアアートだ」ではなく「メディアアートしている状況」

ucnv ところでこれも聞いてみたかったのですが、このツイートが示す「メディアアート」って、どういうことですか?

takawo 「期せずして」という箇所が重要で、今までのお話してきたとおり、このプロジェクトは単発ではなく持続的なもので、僕の人生におけるデイリーコーディングと結びついてもいます。

でも、当初はそんなつもりじゃなかったんです。毎日コードを書いて、出来上がったものを「画面と自分の対話」として楽しんでいただけの僕が、NFTという高度な資本主義のシステムをハックしようとする不思議な活動に変わりつつある。一人の人間がそんなことに巻き込まれていく、翻弄されていく。そういうドキュメンタリーを観ているような感覚なんです。

ucnv このメディアアートっていう言葉が何を指し示しているのか、ちょっと分からないなと思っていて。自分が何かに巻き込まれていくドキュメンタリーみたいな状況になる、という意味ですか?

takawo メディアアートは「メディアテクノロジーを用いながらも、ただそれを道具として扱うのではなく、テクノロジーやその受容の在り方そのものへの批判的・批評的な視点を内在した作品」を指すものと考えています。これまで話してきたNFTアートや市場経済に対する批判的・批評的な視点は、僕のプロジェクトには半分入っていたけど、本当に入っちゃった、というか。でも、それはGenerativemasksが完売しないことには入らないわけだし、僕個人の意思や熱意だけでは、こういった状況にはなっていない。だから、まさに「期せずしてメディアアートしてる状況」という認識です。

ucnv これは色々と意見があるところでしょうけど、僕の認識としては、「アート」には「作家」の存在があると思っています。何らかの作者が作品として提示することが、「アート」の前提としてどうしようもなくある。そういう意味で言うと、takawoさんの状況ってまだアートじゃないと思うんですよ。

takawo 僕も同意です。なので、メディアアート「してる」という感じなんです。ING。「メディアアートだ」じゃない。このプロジェクトは完売していても未完であって、だから「今まさにメディアアートしている状況」だと。NFTの中でしか価値付けされていないとはすでにお伝えしましたが、それゆえに「作品」っていう言い方が適切なのかもまだ分かっていなくて。作品と呼ぶには、僕自身のアティチュードの表明があまりにも足りていないとは思います。僕の中では、Generativemasksはまだ完成していないんです。

ucnv 今、takawoさんから説明してもらったGenerativemasksの肝は、やっぱりNFTアートをハックするところにあると感じるんですね。そういった行為はメディアアート的だとは思いますが、いっぽうで、日常とコードを結びつけるデイリーコーディングの思想と、このハック精神みたいなものが、どうも結びつかないな、という感覚があって。コンピューターを使ってハックする、言ってみれば何かを破壊しようとする人と、日々のコーディングで喜びを見つけようとする人。takawoさんの中で、この二つの立場はどう共存しているのでしょうか。

takawo ハックする立場はクレバーでトリックスターというか、価値を転覆させる側で、デイリーコーディングを行う存在は、善良で素朴?

ucnv そういうイメージもあります。

takawo たしかにデイリーコーディング自体は、計算機科学的なバックグラウンドを持たない、プログラミングを専門としない人たちに向けた活動、というイメージです。でも、いっぽうでコードを書くことだって、コンピューターとディスプレイの表示の間に手を入れていく行為でもありますよね。ハック的精神と、デイリーコーディングの即興的に目についたモノを組み合わせて小屋を建てるような素朴さは、ときに重なり合うものだと思いますよ。今回の寄付のアイデアも、その場で思いついたリアクションだったりするし、その二つは対極にあるようなものでもないかなと。

ucnvさんが今のNFTの世界に対してまだ懐疑的なのは、やはりコレクターが投機的な目的で作品を購入しているに過ぎないと考えるからですか?

ucnv それと、評価のされ方が、今まで芸術が築き上げてきた試行錯誤を、あまりに尊重しなさ過ぎだと思うんですよね。かなり表現主義的になっている。コンセプチュアルな試みや、非物質的な作品の在り方、あるいはソーシャルプラクティスのような現代芸術の試みのことを、どう考えているのだろうか。現在の芸術では絵画のような視覚性をどう捨てていくかという方向性が強くなっている中で、NFTでは視覚表象ばかりが評価されています。

これは何年も前から言っているんですけど、僕は作家として視覚表象に興味ないんですよね。別にどうでもいい。昔から活動しているグリッチ・アーティストもNFTに参加していますけど、「お前ら、結局そうだったんだ」というふうに思っている。「結局、お前らはビカビカしたものが好きなだけだったんだ」と。そういうものが評価される場には興味がないと、今日の時点では思ってます。明日は分からないですけど。

takawo 適切なキュレーションでコレクションが打ち出され、シーンが成熟していくことで、今おっしゃっていたところは変わっていくと思います。たとえば、Processingの開発者のケイシー・リースが始めた「Feral File」という、NFTアートを販売するオンラインの展覧会にはきちんとキュレーターがいて、ステートメントも出している。サイバー空間における作品発表のプラットフォームをつくろうとしています。良識ある活動は登場し始めている。必要なのは、こうしたアプローチがより活性化し、きちんとしたアートシーンが形成されていくことなのだと思います。

「Feral File」より

ただ、話が戻ってくるんですけど、自分の活動の主軸であり最終的に帰ってくるところは、いかにデイリーコーディングを健康的に長く続けられるか。そのあたり、ucnvさんは「コミュニティーと直接つながらない可能性もある」みたいな回答でしたよね。そこ、ちょっと分かんなかったな。たとえばどういうことなんだろう。

ucnv 「コミュニティーへの貢献」の捉え方はいろいろだと思いますけど、たとえばコミュニティーの運営に関わらずに表現活動をしている人もいますよね。そういう人の表現の持続とコミュニティーの発展が、どうつながっているのかよく分からなかったんですよね。クリエイティブコーディングって、ぶっちゃけ役に立たないものをつくっているじゃないですか。

takawo はっきり言いますね(笑)。

ucnv 機能があるデイリーコーディングもあり得るのかもしれないけど、基本的には機能がない。「コミュニティーに貢献する」という可能性としては、機能的なコードで、たとえば「OpenProcessing.org」のベースとなるコードのコミッターになるとか、そういったクリエイティブコーディングを支える基盤をつくることがコミットなんだ、という場合もある。

takawo ありますね。

ucnv そっちのほうが直感的で分かりやすい「コミュニティーに貢献する」だなと思って。表現を続けることと、コミュニティーに貢献することが直接つながってないんじゃないか、という疑問があったかな。

takawo 単純に、僕が役に立つコードとか、誰かのためになるコードが書けないので。僕が教育に関わっているからかもしれませんが、自分の当事者意識としてできることは、トムソーヤのペンキ塗り的な感じで「これは楽しいことだよ」「面白いことだよ」「みんな、クリエイティブコーディングをやってみないかい」と言って関心を持つ人を増やすことかなと。関心を持ってくれた人の中から、ライブラリーを開発しようとか、ユーティリティー的なものをつくろうとか、こういうことが必要なんじゃないか、という意見が出てくるかなと思っています。

「日本のProcessingのコミュニティー」といっても、活動組織自体はめちゃくちゃ少人数なんですよ。オンラインイベントも僕が一人で企画を決めていると、次第にコニュニティーが偏っていってしまうような気がして。だからそういう意味でも、仲間が増えることは非常に重要なんです。

良いライブラリーができるとか、高い技術レベルのコードが増えるよりも、もっと手前の段階で、Processingのコミュニティーであれ、今つくろうとしてるような法人であれ、関わってくれる人が増えないことには、僕一人でやらなきゃいけないことが増える。そういう問題意識から生まれています。

ucnv なるほど。そういえば先日、重い腰を上げて、10年以上前からつくっているライブラリーの大幅なアップデートを行ったんですけど、その背景にはGenerativemasksがありました。

takawo なんで!? (Generativemasksに)そんなパワーはないでしょう。

ucnv 自分もコード書かないと、みたいな感覚になったんですよ。そういう、クリエイティブコーディングに関わっていない僕のようなコーダーにも、少なからず影響がありましたよ、という報告です。

takawo それはめちゃくちゃ嬉しいなあ。やっぱり、そういうことだと思うんですよ。僕の活動からなにか触発する火花をつくりたいし、誰かに何か感じもらえたらベスト。って、なんでそれもっと早く言ってくれないんですか(笑)。もう少し早く言ってくれたら──

ucnv 取材の温度が上がったかもしれない(笑)。

  1. [1]Generative Fishは、Generativemasks直後に出現したNFTアートプロジェクト。コードによって一意な魚の絵を生成し販売している。このプロジェクトは、Lingdong Huang氏が開発し公開している fishdraw というプログラムをほぼそのまま流用している。インタビューが行われた当時、Huang氏が無許可の流用を非難する発言をし注目を集めていた。
  2. [2]ここでの言及ににはucnvの誤認がある。クレーの絵画をモチーフにした作品を作ったのは、同時代のコンピューターアートのパイオニアのひとりであるフリーダー・ナーケであり、マイケル・ノルではない。マイケル・ノルによる過去の絵画の模写としては、モンドリアンの模写がある。また、「Ninety…」の作品名および製作年に関してはSIGGRAPHによるアーカイブと所蔵するV&A Museumで表記に差異がある。(2021年11月3日追記)
  3. [3]「ローグライク」も「ハックアンドスラッシュ」もゲームジャンルを示す語。前者はプレイするたびにマップが自動生成される探索型RPG、後者は出現する敵をひたすら倒しつづけることが主目的であるようなゲームを指す。どちらもコンピュータゲームの領域で多様な亜種を生み出し続けている。
高尾 俊介 | Takawo

1981年熊本県出身。クリエイティブコーダー。2011年SNS上でIT用語と駄洒落による言葉遊びを競う「#takawo杯IT駄洒落コンテスト」を個人主催する。2019年、プログラミングを日々の生活や来歴、風土や固有の文化と結びつけるための活動としてデイリーコーディングを提唱、現在も実践している。2021年、NFTアートプロジェクト「Generativemasks」を発表、発売から2時間あまりで1万個完売するなど話題となった。Processing Community Japan所属。甲南女子大学文学部メディア表現学科講師,第25回文化庁メディア芸術祭アート部門選考委員。

ucnv

プログラマー/アーティスト。デジタルメディアの素材的特性を探求しながら作品を制作する。主にグリッチアートで知られる。
近年の個展に、「Volatile」(情報科学芸術大学院大学附属図書館、大垣、2019年)、「二個の者が same space ヲ occupy スル」(コ本や、王子、2018年)。 近年のグループ展に、「im/possible images」(Lothringer 13 Halle、ミュンヘン、2021年)、「AUDIO ARCHITECTURE in 台北」(華山文化創意園區、台北、2020年)、「フィジーク・トス」(アキバタマビ21、秋葉原、2019年)、「光るグラフィック展2」(クリエイションギャラリーG8、銀座、2019年)など。