私よりも強い人工構造物に、私が経験できない時間を託す:藤倉麻子

Text & Edit: Kentaro Okumura

Interview___3.19.2021

3DCGやアニメーション、空間表現やARなどを用いて、極彩色で無秩序な、乾いた都市空間を表現してきた藤倉麻子。そこでは本来の役割や製造の目的を離れ、生命体のようにふるまう人工物がただ純粋に風景を構築している。「人工⇔自然」という、人間主観の区別や時間軸のない世界を作り出す藤倉のバックグラウンドを尋ねるうち、浮かびあがってきたのは「合一」や「調和」といったキーワードだった。

「充足」の瞬間は、物体が社会の一部の景色としてまとっている時間や規定、法則から外れた状態で出現する

藤倉さんのプロフィールを見てまず気になったのですが、東京外国語大学でペルシャ語を専攻されていたんですね。ペルシャ語圏のどのような文化に興味があったのでしょうか。

昔から、乾燥地域の宗教や建築物の写真を見るのが好きで、プレーンな土地の上に、円形や四角形の組み合わせで造られた伝統的住居やドーム型の建築物がある、というその対比に興味があって。これらが形作られてきた文化や歴史、宗教を学びたいと思ったんです。

「単純化された形状の組み合わせ」自体への関心はどこから来ているのでしょう。

私が育ったのは、埼玉県郊外の、少し行くと田んぼしかないような所でした。フラットな田んぼの上に、高速道路のような巨大なインフラがあるのを通学路からよく見ていて、一つの原風景のようなものです。「平坦な土地に巨大な構造物」という組み合わせや、「外見は単純で中身は複雑」という特徴も、イスラム教の地域の住居やモスクに重ねていたかもしれません。小さい頃から、土地とその上に立つ物体、その「形」だけに注目して見る癖が付いていたのだと思います。自我が消えるほど集中して眺めるのが好きで、物体と私しか存在しない精神状態になることがよくありました。

その後、メディア映像を専攻されていますね。

大学のゼミの先生がドイツ哲学の専門で、イスラム地域に限らない多様な思想に触れるうち、私はビジュアルを理解するために思想を学んでいたのだ、と気がついて。私と、土地と、建物がある景色…これらについて、よりクリーンな状態で考えたいと思うようになりました。

大学を卒業する頃には幻想文学を学んでいて、卒論では、西洋人の主人公がヨーガの思想に魅せられ、ヨーガの秘儀の一つである「身体があるレベルに到達すると自我が消滅する」という状態を目指して実践を重ねるうち、本当に「自分」が消えてしまった、という物語を扱いました。神秘主義に見られる「自我の消失を経て世界と合一する」という考え方にも興味があり、芸大の入試でもこのテーマを考えるための映像を提出しています。制作と同時に思考も進める、という手法でビジュアルをつくるのはとても楽しかったですね。

作品中では「人間によって生み出された物が、人間の管理能力を越えてしまう」という状況が頻繁に扱われています。

橋や柱、道路などのマテリアルは明らかに私の身体よりも強度があって、私よりも長くこの世に残ります。人が古来から自然に対して抱いてきた感情と近いのかもしれませんが、人の手に負えないものに対して、憧れも混ざった畏怖のような気持ちがあるんです。呪術的にすら見える。私にとって道路はただの道路ではなく、私よりも強く、私が見られないものをいずれ見るかもしれないヤツら、というわけです。

最近はエコロジーの視点から思想を表現している作家が増えていますが、これは「人工的領域と、自然の領域は完全に分かれている」というような二項対立では、現実に起こる様々な問題を把握したり、未来を予測することができなくなってきたからですよね。都市機能としての一景色ではなく、質量や硬いテクスチャーを伴った「モノ」があるという状態自体を理解することが大切だと思います。

物がある状態を理解する?

はい。作品で描いている様子を表現する動機には、「物がある状態」を理解することの重要性を伝えたいことが一つ。一方で「充足感」という側面もあります。描かれている光景は私にとってディストピアではなく、むしろ快感の感情でもって制作していて。例えば、港で外灯や水面、倉庫のような人工物に囲まれている。そんな場所で街灯の光を見ていると、すごく充足感に包まれる瞬間が……ありませんか?

どうでしょう。それはその「充足感」の内訳にもよる気がします。

幻想小説のヨーガと同じようなことかもしれません。自分が自分でいることというのは、肉体にとっては制約じゃないですか。それを忘れた状態というか。街灯の光を見ているうちに、自分に対する思考が消えていく。モノや植物などの各要素は独立しているはずのものでありながら、景色という、ある視点の制御によって成立した切り取られた空間を構成する一つの要素となり、同時に、景色を認識する私の自我や、視点が存在することへの意識そのものが消えていることで、景色を認識する立場の私が完全に景色に合一し、埋没している。そういう「充足感」です。

その状態だと、悩みは生まれそうにないですね。

そうですね。悩みとか、記憶も。私にとっての「充足」の瞬間は、物体が社会の一部の景色としてまとっている時間や規定、法則などから外れた状態で出現します。わかやすくビジュアルで説明すると、ある砂漠に、異なる時間や法則で動くAとBの都市がある。その都市の間は果てしなく遠いのだけど、ある条件が揃うと、Aにある柱とBにある柱が同一レイヤーに存続できる、同じトーンで遍在できるような、新しいCの世界(場)が開くような瞬間が生まれる。私はこのCの世界の映像を目指して作っているんです。

作品は、私がこれまで見てきたものや、知識の範囲からでしか生まれませんが、作品それ自体は時間を超えられます。過去であれ未来であれ、違う時代の人に作品を届けてみたいですね。

SUB-ROSAで取り扱う作品「偉大橋脚 | Great Pier」(Photography: Koichi Takagi)

ご自身は完成した作品を眺めることで自我から離れられるものなのでしょうか?

いえ、というよりも、その合一や調和の状態を目指して感覚的にオブジェクトを配置して制作している、という感じです。各物質から、それらが生まれた理由や機能を取り去り、並列でフラットな状態で置かれたとき、各々の関係性がなぜか適切なものになる。それが私にとっての「合一」や「調和」が生まれる条件です。3DCGを使っているのも、フラットでクリーンな状態を表現するのに適しているからです。

聞いているとたしかにディストピアでは全くないですね。バグったように暴走する人工物があっても。

そうなんです。ディストピアとか、まがまがしさや奇抜さといった側面からコメントをいただくことが多いんですけど、むしろそれらとは真逆ですね。バグがあることもフラットなことだと捉えています。

「合一」や「調和」が現れるときは、藤倉さんの内面としても理想的な状態を作り出せるものなのでしょうか。

そうですね。それが一番幸せで、正しい心の状態であるような気がしますし、社会を見る時にも必要だと思っています。他者を捉えるときにも、自分の人生の中で植え付けられた価値観を一旦置いて、同じ地に立つものとして見る、ということが大切なのではないかなと。

一方で、自分の「身体に戻る」瞬間もあってほしいなと思います。これは人間の本能かもしれませんが、一応は人間としての寿命を全うしたい。その上で、人工物や構造体に対する親しみや愛着を持っている。だから、体を持つ私と、質量のある人工物、そして他の生命体がいて、個体がそれぞれ独立しながらも何らかの方法で、お互いの状態を行き来する、もしくは合一する別のレイヤーを認識するような瞬間がある……という場(世界)であってほしいですね。

藤倉 麻子

東京外国語大学南・西アジア課程ペルシア語専攻卒業。東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻修了。現代都市における時間と土地の連続から解放され得る景色を蓄積する。3DCGにより生成したイメージや、空間表現などを中心に制作を行う。主な個展に「群生地放送」(NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]、2018)、グループ展に「FLUSH- 水に流せば -」(EKARYOTE、東京、2021)、「多層世界の中のもうひとつのミュージアム——ハイパーICCへようこそ」(NTTインターコミュニケーション・センター [ICC] 、東京、2021)、 土字旁・人字邊 Close to Nature, Next to Humanity, 臺東美術館、台東、台湾、2020)などがある。「LUMINE meets ART AWARD 2019-2020」グランプリ受賞。「第22回 文化庁メディア芸術祭」アート部門、審査委員会推薦作品選出。

藤倉 麻子 個展「Paradise for Free」

会期:2021年3月19日(金)〜4月4日(日)
時間:13:00 – 19:00  ※日・月・火休廊、最終日曜のみ開廊
会場:CALM & PUNK GALLERY(東京都港区西麻布1-15-15 浅井ビル)

偉大橋脚 | Great Pier

¥110,000

都市空間における工業製品や人工物に原始的な呪術性を見出し、人間の制御や本来の機能から切り離された「楽園」の風景を3DCGによって描き出す美術家、藤倉麻子の平面作品「偉大橋脚 / Great Pier」。サイン、エディション、額装付き。 限定10点。 Si...

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