一杯のお茶から: ノーマ京都とコンプレックス・シンプリシティ

Text: Kosuke Nagata

Edit: Kentaro Okumura

Food_______4.15.2023

2023年3月15日から5月20日までの10週間、エースホテル京都でポップアップ・レストランを開催中の「ノーマ」。日本での開催は2015年の東京以来ということもあり、オーナーシェフのレネ・レゼピは今回のために2年以上前から準備を進めてきたという。京都を中心に日本全国から厳選した食材を用いて作り上げられたというコース料理を、食にかかわる作品を多く発表しているアーティスト・永田康祐がレビューする。

「ノーマであること」とは?

ノーマは2003年にコペンハーゲンのウォーターフロントに開業したレストラン。北欧で採れた、北欧的な食材しか利用しないという明確な指針を掲げ、「新北欧料理」とよばれるスタイルを確立した、デンマークを代表するレストランとして知られています。北欧の冬は長く、植物の生育が望めない期間が長いため、この地域では塩漬けやピクルス、乾物などの保存食が伝統的に食べられてきました。シェフのレネ・レゼピは、こうした北欧の伝統や食材にスポットライトを当て、ファインダイニングの世界で広く用いられているフォンやソースをベースにしたフランス料理の技法ではなく、発酵や塩蔵熟成などのローカルな技法を用いて新しい料理を生み出しています。

彼は、2003年のノーマの開店までにいくつかのレストランでのスタッフを経験していますが、おそらくそのなかで特に重要なのは、カリフォルニアの風土や文化に根ざした食材を用いてフレッシュな野菜や西海岸の魚介を中心に料理を組み立てる「カリフォルニア料理」の流れを生み出したザ・フレンチランドリーや、調理科学に裏付けされた技術を背景にラボでの実験をもとに非慣習的な料理を提供する「分子料理」のムーブメントを牽引したエル・ブジのキッチンでの経験です。北欧の地に根付いた、または伝統的に食べられてきたにも関わらず近代化に伴って忘れ去られてしまった調理技術や食材をリサーチし、R&Dセクションを組織して北欧以外の地域の技術も取り入れながら、土着的な食材を新しい料理へと展開していくノーマの料理は、ザ・フレンチランドリー的なローカルなものへの志向と、エル・ブジ的な科学技術に基づく新しい食体験の発明という2つの方向性が相互に絡まり合うことによって生まれているといえます。[1]

土地や歴史、さまざまな技術のリサーチを通じて北欧的なものを再定義するノーマですが、2012年以降、異なる展開も見せています。それが、世界各地でのポップアップ・レストランの開催です。はじまりはレストランの改修工事期間にロンドンで行われた10日間限定の比較的小規模なものでしたが、2015年に東京で開催されたポップアップでは、長いリサーチ期間を経て彼らが発見した日本の食材や発酵の技術に基づいた料理が2ヶ月にわたって提供されました。こうしたポップアップは、2016年にシドニーで、2017年にはメキシコの3つの都市で実施され、それぞれの地域の食材や調理法のリサーチがそれに先んじて行われています。今回のノーマ京都はノーマのポップアップとしては5度目の開催で、およそ2年にわたる食材・文化両面からのリサーチをもとに計画、実施されています。[2]

さて、北欧の風土を原点にその料理のスタイルを築き上げたノーマですが、2010年代半ば以降は必ずしも北欧に限らず、アジアやオセアニア、中南米といったヨーロッパとは異なる食文化の体系をもつ地域のリサーチにも基づいて、料理を作り上げるようになっています。ノーマは、2018年の移転を期に「ノーマ2.0」と銘打って、シーズナルメニューの形式を一新し、1年を「魚介」・「野菜」・「狩猟と森」という3つのシーズンに分けてそれぞれのテーマに即した料理を提供するという試みをしています。そして、2022年末に発表された「ノーマ3.0」では、恒常的な場としてのレストランが2024年いっぱいの営業を最後に終了すること、レストランチームの学びの場としてのポップアップ・レストランと、R&Dセクションで開発した調味料などを販売するEC事業が今後の中心的な展開になると宣言されています。[3]

北欧の地と共にあったレストランが、恒常的な場としてのレストランを手放して、世界中の様々な土地で料理をするということはどういうことなのか。レゼピは、「ノーマ3.0」の発表と同時期に発売された書籍『NOMA 2.0: Vegetable, Forest, Ocean』のなかで次のように述べています。

〔ノーマのスタートから〕20年が経ったが、私たちの原点はつねに「タイム・アンド・スペース」だった。そして、これまでの20年、私たちは何者なのかという問いの過程で、私たちにとって「タイム・アンド・スペース」という言葉の指す意味は大きく変化した。ノーマが始まったとき、「タイム・アンド・スペース」とは私たちにもたらされる地元の食材のことだった。それは、私たちをスカンジナビアの地に結びつける自然だ。私たちを私たちたらしめるものは、食材がやってくるところ、北欧の地だったのだ。しかし今日、私たちにとっての「タイム・アンド・スペース」は単に「ノーマであること」になった。私たちはもはや私たちがどこにいるかによって左右されるような状況にはない。私たちを決定づけるものは、たんに私たちが何者であるか――ノーマであるということだ。

Redzepi, René, Søberg, Mette, and Takahashi, Junichi, 2022, NOMA 2.0: Vegetable, Forest, Ocean, p.15, 筆者訳

「北欧の地にあることの表現としてのノーマ」という初期のステートメントが非常にわかりやすい一方、現在のこのトートロジカルな語りが何を指しているのかということはにわかには理解できません。確かなのは、ノーマの料理が目指すものがもはや通常知られているような「その土地の表現」ではないのだということです。「ノーマであること」とはどのようなことか。それについてノーマ京都の料理を通じて考えることが本稿の目的です。

食材(だけ)を食べさせるわけではない

ノーマ京都のコースは懐石の八寸や精進料理にインスパイアされた5つの料理から始まるのですが、真っ先に驚かされるのは、ノーマをはじめとした新北欧料理に位置付けられる料理の特徴として指摘されるような乳酸発酵やビネガーなどの酸味ではなく、麹や味噌などの濃厚な旨味を基調に料理が構築されているところです。

「八寸」の5品。6時の方向から時計回りに「湯葉と行者ニンニク」、「麦麹と赤しょうが」、「トマトの花」、「桜の葉」、「ポーレンのジェル」。
(以下、写真はすべて筆者撮影)

5品からなる「八寸」の最初の1品にあたる、オイルを塗りながら炭火焼きにした行者ニンニクとナズナやスイバに一寸豆と湯葉をあわせた料理は、一見すると春の野菜のサラダのように見えます。そのため、ビネグレットのような酸味のあるソースでまとめてあるかと思いきや、カシスの木の香りのオイル(オリーブの採れないノーマでオリーブオイルのように使われているものです)と炭火の香りのあとにやってくるのは、湯葉の中に詰められていたキハダの実[4]と昆布塩のペーストによる長期熟成味噌を思わせる濃厚な旨味と塩気です。

1品目「湯葉と行者ニンニク」

また、3品目の石垣島のバラとセミドライにしたトマトやハスカップ、サルナシの料理は、5品目のミツバチ花粉とトマトのジュレを合わせた料理とともに、八寸のなかでは比較的酸味の強い料理ですが、ここでも発酵に由来する酢酸系の強い酸味や乳酸系のくぐもった酸味の利用は明確に抑えられ、トマトやサルナシ[5]、ハスカップやハイビスカスなどのクエン酸系の爽やかでキレのある酸味と赤い花をイメージさせるような彩度の高い華やかな香りでまとめられています。

3品目「トマトの花」

これらの料理では、個々の料理の味の輪郭はしっかりと立っているのですが、必ずしもそれぞれの食材の味がダイレクトに感じられる、というわけではありません。どの食材も燻してあったり、干してあったり、麹などに漬けてあったりして、食材自身のフレーバーに加えて薫香や熟成香などが重なる多層的な香りのレイヤーが感じられ、かつそれらが主材料の補助以上の役割を果たしています。こうした料理のあり方は、一瞥した限りでは、土地の自然をその土地の食材で表現すると一般に言われる「新北欧料理」の態度とは趣を異にするようにも感じられます。なぜなら、これらの料理では食材固有のフレーバーはその他の調味料や副材料の風味によってかなりの度合い抑えられているからです。

後に詳述しますが、どうやら少なくとも今回のノーマ京都において、その土地の表現は、食材の味わいをそのまま提示すること(だけ)によってなされるのではないようです。これまでに新北欧料理の特徴としてよくひきあいに出されてきた乳酸発酵やヴィネガーの多用も、当たり前ですが、食材のもつ特性をダイレクトに表現するものではありません。むしろ、発酵の過程は食材特有の香気成分が揮発や分解などによって失われ、微生物が発生させる物質によるフレーバーが優勢になっていく過程でもあるからです(がゆえに、どこで発酵を止めるかというのが重要な判断になります)。

このような「ローカルな食材(だけ)を食べさせるわけではない」という態度は、7〜8品目で最も強烈に示されます。7品目に提供される、フレッシュな鬼エビに生姜ペーストと昆布塩をまぶし、マダガスカルペッパー[6]をふった料理は、一見すると鬼エビを自身の甘みと酸味で食べさせる料理のように見えます。しかし実際に食べたときに強く印象付けられるのは、生姜のほのかな辛さと苦みとともにやってくる昆布塩のもつ強い海の香りと塩辛さです。ここでは鬼エビの食感や香りは、単独で料理を支える強い柱であるというよりも、生姜ペーストや昆布塩の風味を運ぶメディウムのように機能しています。

7品目「鬼海老」

続いて提供されるバラと桜のパウダーをまぶした紋甲イカの薄造りもまた、極限まで薄くスライスされたうえで正方形に切り揃えられ、一見すると何らかのジュレシートのようにも見えます。また、実際に食べてみても紋甲イカの甘味や旨味は前景化せず、むしろバラと桜の香りや、ウイスキービネガーの酸味などが強く感じられます。紋甲イカは、ビネガーの甘酸っぱさをぼんやりとした甘みでトーンダウンしつつ、くにくにとした食感を与えるといった働きで、視覚的にも風味の構成の上でも、中心的な役割を果たしているわけではないように思われました。

8品目「甲いかとウイスキーヴィネガー」

こうした料理で経験されるのは、単一の食材の風味そのものではなく、その布置、すなわちひとつの料理という単位において旨味や塩気、酸やフレーバーがどのような要素によって担われていて、それぞれの要素がどのように相互作用しているかという食材どうしの関係に関わるものです。それはちょうど、料理においてどのような調味料のセットが用いられているか、ということともつながるでしょう。例えば同じ生魚を食べるにしても、日本では醤油をベースにした熟成感のある旨味と塩気で食べるいっぽう、イタリアではオリーブオイルの青々しい苦味とビネガーの酸味で食べ、ペルーではライムの爽やかな酸味と唐辛子のフルーティーな辛さと旨味で食べるというように、同じ食材でも調味に使われる副材料の組み合わせによって異なる風味がフォーカスされ、有用化されます。ここまでのノーマの料理で前景化しているのは、こうした調味の布置のようなものであるといえるでしょう。

料理の説明の際にも焙乾したトウモロコシやカボチャを(鰹節ならぬ)「コーン節」や「カボチャ節」と説明したり、麹で発酵・熟成させた海苔を「海苔醤油」と説明したりするように、鰹節であったり醤油や味噌のような日本の食文化に結びついた調理・保存法がその語彙として用いられており、こうした調味料の開発がノーマの料理を構築する重要な軸を成していることが推測できます。もちろん食材でも京丹後の山菜や石垣島のバラなど、日本の様々な地域をリサーチし、日本を代表する食材や、まだ知られていないがポテンシャルをもった日本の食材をどうプレゼンテーションするかという実践は行われていますが、料理の方向性を決定づける重要な要素にシーバックソーンやマダガスカルペッパーのような北欧やアフリカの食材が用いられている点からも、食材レベルでは日本のローカルなものに対する志向が第一義的に優先されるわけではないということがわかります。

左側から「コーン節」と「カボチャ節」

また一方で、麹や味噌、醤油といった日本の発酵技術の重用に比して、コペンハーゲンでは多用されていたビネガーやピクルスがあまり使われていないことから、調味料の作られ方、そしてそこで発生する固有なフレーバー(乳酸発酵やビネガー、オイル漬けであれば、すえた酸味のくぐもった印象や重層的な香りレイヤーであり、麹による発酵や長時間熟成、焙乾のような手法であれば、旨味やメイラード反応由来の香ばしさ、スモーキーなボリューム感)を基軸にした料理の組み立て方にノーマのローカルなものへの関心を見て取ることができます。しばしばノーマにおいて指摘されている「北欧の食材だけで作る」というコンセプトに意識を持っていかれがちですが、実際のところノーマにおいて重要なのは食材(だけ)ではなく、それがどのような形で処理されるのか、そしてそれがどのような料理の骨格を形作るのか、というところにあるのでしょう。

複雑性を生み出す「カプセル化」

しかし、ノーマの料理におけるローカルなものの表現が食材それ自体ではなく、その(発酵のような長期的なものを含む)調理法や、それによって生み出される料理の骨格によって実現されているとしても、その構成はあまりに複雑です。

たとえば、15品目に提供される伊勢エビの料理には、バラとかんずりのオイルを塗りながら炭火で火を入れた伊勢エビに、カボチャ節をはじめとした30種類近くの食材からなるペーストが添えられています。ペースト単体で30品目というのは常識的にはかなり多いように思われますが、実際に食べた印象としては複雑妙味であるというよりもむしろ、伊勢エビとバラのふんわりとした甘い香り、カボチャ節などの薫香とこっくりとした甘さをあわせ、かんずりや柑橘の酸でバランスさせており、比較的シンプルな組み立てであるように感じられます。

15品目「伊勢海老」

高度に訓練された料理人であれば確かに30種類の食材のフレーバーを感知しつつそのバランスをコントロールすることは可能かもしれませんし、最終的な料理のチューニングではそういった調整も実際に行われているのでしょう。しかし、ここで生み出されているフレーバーは(すくなくとも私が感知できる水準では)より少ない数の食材の組み合わせからでも実現できるように思われます。だとしたら、このような過剰ともいえる複雑性は何によって要請されているのでしょうか。

そのヒントはノーマのクリエーションのプロセスにあります。ノーマのR&Dセクションの料理人の方の説明によると、ノーマの料理の開発は、個人ないしは数人のグループ(具体的な編成についてはわかりませんでした)が毎日ひとつの料理を提案し、キッチンのみんなで試食して意見を出しあいながら、最終的にはシェフが判断してメニューに候補に残すかどうかを決める、という形で行われているそうです。そして、このプロセスのなかで興味深いのは、R&Dセクション内のそれぞれがひとつの料理に固執して開発を行うのではなく、他の人やグループが提案した料理に使われていたパーツを分けてもらったりしながら料理を発展させているというところです。

すなわち、前日に他のグループが提案した料理の中で作られていた削り節と、また別のグループが作っていたガルムを合わせてペーストを作り、自分たちが提案する料理で使ったと思ったら、次の日には別のグループが自分たちが作ったペーストを使って別の料理を組み立てる、ということが起こりうるわけです。このような階層化のプロセスが繰り返されることによって、料理の複雑さは指数関数的に増加していきます(実際には、調理工程が無限に長くなることは現実的にありえないので、階層化が永遠に行われるわけではありません)。

そしてまた、こうした階層化は、普段あまり意識されることはありませんが、日本をはじめとするアジア圏で用いられる醤の利用などでも同様に起きていることです。味噌にしても、鰹節にしても、オイスターソースにしても豆板醤にしても、これらの調味料では複数の素材に発酵や熟成のフレーバーが重なり合い、複雑な風味が絡み合っていますが、それらが素朴に利用される限りでは、「味噌の味」「オイスターソースの味」というまとまりで理解されています。それは本来複雑である食材を、調理者の認知リソースを圧迫せずに利用できるようにするための「カプセル化」[7]の作業であるとも言えるでしょう。つまり、すくなくともこうした調味料の一般的な使用における多くの場合において、調味料のフレーバーは料理から逆算されて決められているのではなく、むしろ調味料のフレーバーが所与のものとして、私たちが普段作る料理の骨格を形作っているのです。

このことから言えるのは、ノーマの料理においても、料理の複雑さは、すくなくともクリエーションの水準では目的化されておらず、そのプロセスのなかで結果的に生み出されたものである、ということです。全く知らない誰かが作った既製品の調味料でもなく、自分ですべてコントロールし、キッチンでの調理のプロセスと切り離せないフランス料理的なソースやコンディマンでもなく、ある程度目指す方向性を共有したチームメイトによって開発された調味料を使うという料理の作りかたによって、ある程度その調味料の風味の由来を把握し、必要となれば遡ってそのフレーバーのチューニングが可能でありつつ、しかし実際に使用する際にはその内実について神経質になることなく調味料としての風味に集中して料理の構成を考えることが可能になっているように思いました。

先に私は、ノーマの料理において、土地の食文化に結びついた調理・保存法がその語彙として用いられており、食材(だけ)ではなく、それがどのような形で処理されるのか、そしてそれがどのような料理の骨格を形作るのかということが重要視されているということを指摘しました。こうしたノーマにおける志向性は、特に日本や北欧のように(フランス料理に比べて)漬物的な傾向をもつ食文化と結びつくことによって、試作において調味料のような「カプセル」を生み出すように傾向づけられます。そしてそれが試作を重ねる中で階層化され、料理の複雑な風味が生み出されるのです。ローカルなものは、ノーマにおけるクリエーションを展開する力、「カプセル化」のロジックを与えるものであると言えるでしょう。繰り返しになりますが、ノーマにおいて、料理の複雑さは、必ずしも目的ではなく、ローカルなものへの志向と、クリエーションの方法論が手を取り合うことによって、結果的に生み出されているものなのです。

コンプレックス・シンプリシティ

さて、ここまでノーマの料理を複雑さ(≒料理を構成する材料や工程の多さ)という一元的な見方で分析してきましたが、この複雑性はすべての皿で同じように経験されるわけではありません。これまで見てきた皿では、ひとさじ口に運んだら、その瞬間に各材料の香りが一斉に広がり、フレーバー同士の衝突が鮮やかに経験されるような料理でしたが、そうでない料理も存在します。

その代表的な例が11品目に提供される、青大豆と白大豆を緩く固めた豆腐に、野菜と味噌を煮詰めて作ったペーストを詰めたナスタチウムの花と生のアーモンドのすりおろしを合わせた料理です。この料理では、そもそも食材の形状や盛り付けがばらけているため、すべての食材が同時に口に運ばれるわけではありません。そのため、ひとさじごとに異なる組み合わせやバランスで食材を口に運ぶことになり、食べ進める間の時間的な変化が必然的に経験されます。すべての食材の風味をある程度独立させようとする意思は、料理の盛り付けや構成にも表れていて、アーモンドは豆腐の上にかかるのではなく脇に盛られ、その下にはナスタチウムが一房置かれることによって、鉢に張られた松の出汁にアーモンドの風味が溶け出すのを防いでいます。またマジョラムは出汁と一緒に煮出すのではなく、オイルに香りを移して出汁から分離するように仕立ててあります。

11品目「お豆腐と生アーモンド」

すりおろし、出汁、カード(豆腐)、オイルといった形態・状態の違いは、食べ進める際の変化だけでなく、口に運んだときにも時間的な変化をもたらします。豆腐をひとすくい口に運ぶと、まず松の出汁(ここには説明されていない旨味をもった他の出汁が含まれているようにも感じられます)のしっとりとした旨味とほのかな塩気が感じられ、次いでマジョラムのスモーキーで華やかな香りがすりおろされたアーモンドの杏仁香とともに感じられます。口蓋と舌先で豆腐を崩しはじめると、出汁とオイルのような液体とすりおろしのアーモンドは豆腐と混じってそれらのフレーバーは後退すると同時に、豆腐のふんわりとした甘みと青っぽい豆臭さが感じられ、咀嚼をはじめるとしゃくっとした食感とともにナスタチウムのほのかに渋い香りが広がり、一呼吸遅れてナスタチウムに詰まっていたペーストが飛び出してきて、強い旨味と塩気が煮詰めた野菜のフルーティーな香りとともにやってきます。豆腐の下には刻んだ松の実が散らしてあり、まれに松の実を噛むとナッティな香りが広がり、一瞬アーモンドに誤認されつつも豆腐に均衡するようなより強い油脂感が感じられます。それぞれの風味は、湿った画用紙にインクを垂らしたときのように滲みながら重なり合って緩やかな変化を生み出し、塩気や旨味の濃淡がそこに強弱を与えています。

このような様々なフレーバーの継起は、経験としてはとても複雑なもののように感じられますが、伊勢エビに添えられていたカボチャ節のペーストのように、その由来がもはや検証不可能なほど複雑に混じり合っているわけではありません。むしろ、個々のフレーバーが時間的にずらされることによって、それぞれの食材の風味の対比関係や隣接性が感じられ、それによって食材単体では感覚されづらいフレーバーが鮮やかに感じられます。例えば、アーモンドの杏仁香は単体ではそこまで強いものではなかったように思われますが、松の出汁とマジョラムのオイルの霧がかった甘い立ち香と豆腐から感じられる大豆のまろやかでくすんだ香りに挟まれることで、そのふんわりとしたフローラルな印象をより強めています。

このように考えると、ノーマの料理においてその複雑さは、わかりやすさと結びつくようなシンプルさと単純に対立するものではないように思われます。ノーマの料理の複雑さは、伊勢エビに添えられたカボチャ節のペーストのように文字通りの複雑さを呈すると同時に、先程の豆腐の皿のように個々の食材の風味をありありと経験させるための方法論としても用いられています。複雑であることは、必ずしもそれが把握できないということではないのです。

こうしたノーマにおける複雑さとシンプルさの関係は、一見するとシンプルな仕立てに見える料理においてより明快に示されます。12品目に提供される、ニワトコ[8]の花に漬けたキンキを炭火で焼き、桜の花の塩漬けで香りをつけてから燻製にした卵黄のソースを塗った料理では、ニワトコの甘いハチミツのような香りと、燻製にして水分の抜けた卵黄の味噌のような印象が相まって、キンキが西京焼きのように感じられます。しかし、ソースとキンキに共通する花の香がふんわりとベールのように香ることによって、この料理は通常私たちが慣れ親しんでいる西京焼きからは微妙に異化されます。それによって、西京焼きという「シンプルな」料理の背後にある複雑さに目が向くわけです。そして、西京焼きとの差分からニワトコや燻製卵黄の風味を探し当てるプロセスは、料理における「カプセル化」を解除することでもあります。私たちは日常的に西京焼きを食べるとき、味噌や日本酒の香りをさらに分解してその先にある麹や米の香りまで遡ることはあまりありません(そもそも「西京焼き」の風味を味噌や日本酒まで分解して捉えない場合がほとんどでしょう)。それぞれの風味は特定の味噌の種類や酒の種類として「カプセル化」されているからです。しかし、この料理では、それが異化されることでカプセルに裂け目が生じ、その構成要素へと意識を向けさせるのです。

12品目「キンキ」

すこし料理そのものから離れてしまいますが、同席者が料理について質問した際にR&Dセクションの料理人の方が語っていたなかでとても印象的なフレーズがあります。それは「コンプレックス・シンプリシティ」です。この言葉はノーマの料理人のあいだでなかば合言葉のようになっているそうで、その場の説明では日本語で「一見シンプルだけど裏に複雑な要素があることを目指している」とも言い換えられていましたが、実際にはそれ以上のものを含意しているようにも思われます。ここまでノーマの料理で見てきたように、複雑さはシンプルさに対立するものではなく、むしろ複雑さによって食材の特性が把握しやすくなったり、逆にシンプルな構成によって個々の要素の複雑さが経験されたりするように、両者は協調してそれぞれの印象を成立させているからです。

それは、複雑性を排してシンプルなものを希求したり、基礎的な要素(≒シンプルなもの)を特定の方法論や技術に基づいて緻密に構築したりという対立とは根本的に異なるものです。「コンプレックス・シンプリシティ」という言葉に含意されているのは、「料理とは複雑/シンプルであるべきだ」というよりもより強い主張、「料理とは根源的に複雑でしかありえない」という信念にも近い主張です。複雑でしかありえない料理の本性をゲストに示すものとして、時に見かけ上のシンプルさが要求されているのです。

根源的に複雑なものとしての料理

こうして考えていくと、14品目に提供される、油を塗りながら炭火で火を入れたりバターソースで蒸し煮にした山菜に伊勢エビ味噌のソースを合わせた「シンプルな」料理の違う側面が見えてきます。最初私は、この料理をメイン料理的な位置づけである伊勢エビの料理を予感させつつ、その前に一旦情報量を減らして次の皿へのゲストの集中力を高めるためのひと皿だという程度の認識しかありませんでした。実際に、この皿の構成要素やそれに伴う情報量は他の皿に比べて少なく、塩気や旨味も決して強くありません。そのため、この皿は20品にもわたる長いコースのインタールードとして絶妙に機能しています。しかし、これまでの議論を踏まえ、改めてこの皿に着目してみると、そこに単なるインタールード以上の可能性を読み取ることもできます。

14品目「山菜」

補助線として、デザート前の16品目に提供される緑米とよばれる古代米と石垣島のバラのオイルとビネガーに伊勢エビを合わせた料理について考えてみます。この料理は、バラのオイルとビネガーで香りをつけて炊いた緑米の玄米に、ふんわりと火の入った伊勢エビの脚などの端肉とバラの花弁を盛り合わせています。緑米からはエビの香りが強く感じられないところから、炊き込まれているわけではないことがわかります。バラとエビの組み合わせはノーマではしばしば行われているもので、桃色を連想させる甘やかな香りの隣接性によって、この料理の構成は「バラ — 伊勢エビ」という系列と緑米という比較的シンプルな組み合わせとして経験されます。[9]そして、14品目に伊勢エビがメイン食材としてすでに提供されているところから、必然的に意識は緑米へと向かいます。

16品目「緑米と薔薇」

ここで、もし緑米が例えばしっかり精米された香りの弱い餅米をローズウォーターで蒸したものだったり、粥のような食感の弱い仕立てだったら、と考えてみましょう。おそらく前者の場合は桜餅のように花の香りのするもちもちとしたお米に伊勢エビをあわせた「餅米 — バラ — 伊勢エビ」というシームレスな系列が生み出され、後者の場合は粥はバラの香りを運ぶメディウムとして機能し「バラ(粥)— 伊勢エビ」という単純な組み合わせが成り立つだろうと想定できます。これは私見のうえ検証もしていないのではっきりとしたことは言えませんが、おそらくこのような組み合わせのほうが料理としてのまとまりは良くなるでしょう。実際、私がはじめ一口この料理を食べたとき、なぜすっきりとした味わいの白米ではなく緑米が用いられたのかを疑問に思いました。しかし考えてみると、もし緑米のようなそれ自体の風味の強い米が使われなかった場合、この皿は、伊勢エビを味わうためのものになることが想像できます。餅米でも粥でもない緑米が使われ、白っぽく甘やかでフローラルな香りのバラと伊勢エビの系列と組み合わされることで、緑米の稲藁を思わせる青っぽい香りや玄米らしい香ばしさが、霧がかった清らかな香りと対比されて、しみじみと感じられます。緑米という食材のもつ複雑性が経験されるというわけです。

山菜の皿に戻って考えます。この料理では、炭火で火を入れたり、バターソースでポシェにしたりといった火入れのコントロールはある程度行われていますが、炭の香りをつけたり、バターの香りを移したりといった側面はほとんど重視されず、アブラナ科系の香りの厚みを増幅させたり、タラノキ科の食材のえぐみを最低限抜いたりといった補助的な目的で行われているように思えます。つまり、この皿で山菜は、比較的「そのまま」食べるようにプレゼンテーションされているのですが、ここまで様々なオイルやペースト、熟成や発酵の香りを体験してきたゲストは、シンプルな料理のその背後にどのような複雑さがあるかを探らずにはいられません。そうして発見されるのが、ナバナの蕾の中に詰まった黄色い花の香りであったり、ウドのわずかにくすんだ清涼感の奥にあるホワイトアスパラガスのような甘い風味であったりするわけです。

食材のもつ風味をそのままショーケースする、ということは全く新しくもなければ珍しいことでもなく、「シンプルな調理が一番」ということと何も差が無いようにも思えます。実際のところ、ここで行われていることは「シンプルな調理」の範疇であることは確かです。しかしこの料理で示されているのは複雑な調味・調理に対立するものとしてのシンプルな料理、そしてそれによってもたらされる食材それ自体の複雑な風味ではありません。ここで示されている食材のもつ複雑さは、発酵や熟成によって生み出される多層的なフレーバーや、緻密な構成や調理によって生み出されるフレーバーの精緻な噛みあわせと同等のものと見なされているように私には思われます。この複雑さは、たんに自然がもたらした複雑さを言祝ぐものではなく、料理のもつ根源的な複雑性のひとつとして、調味料のもつ階層的な複雑さや、複雑な構成によって生み出される継起的な味覚の経験とともにあるものとして提示されているのです。

植物がある生育の特定のある時点で採集・収穫されること、ある食材が特定の比率で混合され、その発酵の過程がほかでもないその日に打ち切られること、食材がほかのいつでもないまさにその瞬間に火から下ろされること。こうした瞬間の積み重ねが料理には結実しています。それは、ノーマの料理だからそうだというわけではなく、すべての料理が必然的にそうであり、無限の複雑さがそこにあるのです。私たちは通常、こうした無限に相対さなくてもいいように、食材、調味料、料理といった単位でカプセル化し、それ以上考えなくてもよいように処理しています。ノーマの料理は、私たちの慣習を異化することでこうしたカプセルに穴を穿ち、様々な位相でその複雑性を提示します。それによって、私たちは、この料理が他でもないこのような味わいになっていることの奇跡を経験することになるのです。

1杯のお茶から

レゼピは、ノーマ京都の開催にあてたテキストのなかで、かつて日本で経験した茶会について次のように記しています。

…1杯のお茶になぜそんなに注意が払われるのだろう?
この問いかけによって、新しい世界が広がりました――禅宗の世界観と日本の伝統、それは意思と献身の目によって一瞬を見つめることで、何気ないように思える瞬間に意味を与え、そこから何が生まれるのかを発見する術であると。 この儀式で焦点が当てられていたのはかつてはお茶でしたが、時間の経過とともに少量の料理が含まれるようになったことを知りました。…これは私が疑問に思ったことですが――今日西洋で見られるテイスティングメニューは、日本、京都の町と懐石料理を発祥とするのではないだろうか、 若しくは、1杯のお茶から生まれたのではないだろうか?[10]

Kyoto | noma, https://noma.dk/kyoto/ [最終アクセス2023年4月]

ここでは、テイスティングメニューの発祥が懐石料理なのではないかというレゼピの着想については踏み込みませんが、本稿でのこれまでの分析を踏まえれば、彼のこうした禅宗的なものへの理解からノーマの料理観を窺い知ることはできます。それは、1杯のお茶に膨大な情報が込められうるという確信、そしてそのように1杯のお茶を人は味わうことができるという信念です。根源的に複雑でしかありえないものとして料理を味わうこと。それは、意思と献身の目によって一瞬を見つめ、その瞬間に意味を与え、可能性を発見する術でもあるのです。

  1. [1]ノーマをはじめとする現代料理におけるローカルなものについては藤田周による以下のテキストで詳しく論じられています。(藤田, 周, 2023, 「食の批評を始めるために——現代料理と、二項対立というフィクション」,『遅いインターネット』, https://slowinternet.jp/article/20230413/ [最終アクセス2023年4月])また、本稿が書かれるにあたって、ノーマ京都での同席者である和菓子作家の杉山早陽子、フードエッセイストの平野紗季子、文化人類学者の藤田周(五十音順、敬称略)との食事中の会話が大きなヒントになっています。本稿のなかで記述されている食の経験は筆者自身の感覚に基づいて書かれてはいますが、同席した方々との会話のなかで発見的に経験されたものが多々あります。そのため、文責はもちろんすべて筆者に帰しますが、その記述は同席者の方々の洞察に大いに助けられています。
  2. [2]本稿は、京都でのポップアップのうち3月後半に実施されたランチのサービスをもとに書かれています。ポップアップの会期中にも、食材の旬や水産物の収量に応じて内容や盛り付けが微妙に変化している可能性があります。また、本文中では触れていませんが、ドリンクのペアリングはノンアルコールでお願いしているため、アルコールペアリングについては一切把握していません。
  3. [3]「ノーマ3.0」のウェブサイトでは以下の様に宣言されています。「…そのため、私たちはノーマのポップアップを行うつもりです。…レストラン営業は依然として私たちを成す一部ですが、もはや私たちを決定づけるものではありません。その代わり、私たちの時間は、新しいプロジェクトを試したり、より多くのアイデアやプロダクトを展開、開発することに、よりいっそう費やされることになります」(Noma 3.0 | noma, https://noma.dk/nomathreepointzero/ [最終アクセス2023年4月])
  4. [4]ミカン科の落葉高木樹になる実で、樹皮はオウバクとよばれ生薬に用いられます。実は熟すと黒色で、柑橘系の芳香に加えて、苦味と山椒のような辛味があります。
  5. [5]マタタビ科の落葉性つる植物で、果実が食用にされます。果実はコガ、コクワともよばれ、小さなキウイのような見た目をしています。キウイに似た酸味と甘味があります。
  6. [6]マダガスカル原産の野生の胡椒で、胡椒のウッディな香りと山椒に似た柑橘系のフルーティーな香りがあります。山椒や通常の黒胡椒ほどの辛さは感じられません。
  7. [7] 「カプセル化〔encapsulation〕」とは、コンピュータプログラミングで主に使われる概念で、互いに関連するデータや処理をひとつのモジュールにまとめ、モジュールの内部を意識しなくてもそのデータや処理を利用できるようにすることを指します。ここでは、醤油や味噌のような複雑なフレーバーをもつ調味料を、その個々のフレーバーの由来を知らなくても、「醤油味」として扱えるということを比喩的に「カプセル化」と呼んでいます。たとえば、八方だしやポン酢のようなものも、醤油や出汁、酢などのカプセルをさらにカプセル化したものと捉えることができます。
  8. [8]ガマズミ科の落葉樹で、日本では若芽が山菜として食用にされています。ヨーロッパ、特に北欧では近縁種のセイヨウニワトコの花や実がそれぞれエルダーフラワー、エルダーベリーとよばれ食用にされています。花はハチミツような厚みのある甘い香りが特徴的です。
  9. [9]バラとエビの組み合わせは、これまでのノーマの料理ではローズオイルと生のホッコクアカエビをミキサーにかけ、生クリームと合わせて泡立てた、冷たい「エビのムース」(Redzepi, et al., p262)などがあります。また、発酵調味料としては、「バラとエビのガルム」(レゼピ, レネ, ジルバー, デイヴィッド, 2019, 『ノーマの発酵ガイド』, ,水原文訳, pp.380-383)が作られています。
  10. [10]和訳は公式ウェブサイトのテキストを参考にしながら原文の意味に即して適宜修正した。
永田 康祐

1990年愛知県生まれ。社会制度やメディア技術、知覚システムといった人間が物事を認識する基礎となっている要素に着目し、あるものを他のものから区別するプロセスに伴う曖昧さについてあつかった作品を制作している。主な展覧会に『あいちトリエンナーレ2019:情の時代』(愛知県美術館、2019)などがある。