美味しさを越境する: 「アグリー・デリシャス」のアナザー・テイスト (前編)

Text: Kosuke Nagata

Illustration: Yuu Yamamoto

Edit: Kentaro Okumura

Food________5.2.2022

Mama Rosa Brick Oven Pizza (Jackson Heights, Queens)

言語と食文化を翻訳的視点から考察した「Translation Zone」(2019)や、調理器具や食事作法と身体の関係に注目した「Purée」(2020)など、近年食にかかわる作品を多く発表しているアーティスト・永田康祐が、各国の食文化とそのルーツに迫ったドキュメンタリー『アグリー・デリシャス: 極上の “食”物語』を批評する。特定の文化に光をあてるアンビバレンスに絆されながらも新たな美味を希求する、営みとしての「アグリー・デリシャス」の姿。

美味しさを越境する: 「アグリー・デリシャス」のアナザー・テイスト(後編)

食文化の荒波にむけて

『アグリー・デリシャス 極上の”食”物語』シーズン1(以下、『アグリー・デリシャス』)は、多民族国家であるアメリカの食文化にスポットライトをあてたドキュメンタリーだ。朝鮮系アメリカ人シェフのデイヴィット・チャンが、アメリカの各地をはじめ、コペンハーゲン、東京、上海、メキシコシティといった様々な都市をめぐりながら食の歴史やルーツを探る。フォーカスされる料理は、ピザ、タコス、家庭料理、エビ・ザリガニ料理、バーベキュー、フライドチキン、アメリカ流の中国料理、餃子やラヴィオリなどの詰め物料理と多岐にわたるが、どの料理もアメリカの食文化を語る上で欠くことができないものだろう。

しかし、実のところ、これらの料理の多くはアメリカ国外にルーツを持っている。ピザやラヴィオリはイタリア、タコスはメキシコ、餃子を含め中国料理は当然中国だし、ザリガニ料理が盛んなニューオーリンズは旧フランス領で(オーリンズはフランス語読みでオルレアンだ)その地を代表するケイジャン・クレオール料理はフランス系移民とアフリカ系移民のあいだで生まれた食文化だ。本作では登場しないが、おなじみのハンバーガーもドイツ系移民によってもたらされた。

©Netflix

北アメリカ大陸の原住民と、15世紀末以降のヨーロッパからの移民や奴隷として入植を強制されたアフリカ系アメリカ人、そして19世紀以降に出稼ぎにきたアジア系移民の文化の絡み合いから、アメリカの食文化はできている。だから、タコスやピザといったアメリカを代表する料理には、少なからずメキシコやイタリアの食文化のローカライズされたバージョンとしての側面がある(少なくとも、メキシコやイタリアなど「本場」の味とは異なる)。そしてさらには、被侵略者であるネイティブ・アメリカンの食文化や、長く奴隷として扱われてきたアフリカ系アメリカ人たちの食文化が、開拓民たちによって広められたことで形成されてもいる[1]。移民によって持ち込まれたものの再現と、侵略者によって奪い取られたものからアメリカ料理は成り立っているのだ。『アグリー・デリシャス』がフォーカスするのは、こうした様々な文化的衝突のバトルグラウンドとしてのアメリカ料理なのである。

『アグリー・デリシャス』のタイトルは、「エピソード3:家庭料理がもたらすもの」でのチャンの発言から取られている。「家庭料理、あるいは僕が  “アグリー・デリシャス” な食べ物と呼んでいるものをレストランでも提供したいと思うようになった。そこには料理の幅を広げる可能性がある」[2]。見た目の華やかさや文化的洗練を誇る料理ではなく、素朴で、見た目は良くなくても、人々に懐かしさの感覚を与え、ほっとさせるような料理。そういう料理を「アグリー・デリシャス」[3]とチャンは呼んでいる。

「アグリー」な美味を追求するチャンは、それゆえ伝統や格式を疑わずにはいられない。「エピソード8:イタリアとアジアの包み物」で、チャンは次のように言う。「高級料理を高級たらしめているのは、料理じゃない。いわゆる高級店とは白いテーブルクロス、リネン、花、タキシード。そういう場所に最高の食は宿った。バカげた慣習には食ってかかったりした。大切なのはあくまで料理〔そのもの〕だろ」。

このようにして聞くと、「アグリー・デリシャス」とは格式張った高級料理に対する懐かしい美味しさの家庭料理のように思われるかもしれないが、話はそこまで単純ではない。実際のところ、『アグリー・デリシャス』ではコペンハーゲンのノーマをはじめとして、メキシコシティのプジョルやモデナのオステリア・フランチェスカーナなど、いわゆるファイン・ダイニングの料理も紹介される。「アグリー・デリシャス」の敵は高級であるということではなく、抑圧的な権威主義であり、スノビズムなのだ。

チャンは見た目の良くない〔ugly〕料理として、彼のレストランで試作中の魚とトウガラシの四川風煮込みを作ってみせる。「トウガラシとイモと魚でつくる、ただの田舎料理だ。パプリカを使えばポルトガル料理になるし、ソーセージを使えば(イタリア料理の)ソーセージ・アンド・ペッパーだ。でもそうはしない。激辛料理には甘さも必要だと思うからだ。だから、サツマイモやニンジンや春雨を入れる。そうなるともう何料理を食べているのか分からなくなる。そうだろう? 文化へ敬意を払おうとすれば、その価値を毀損せずに、どうやって組み合わせたらいいかがわかる。それが、シームレスに文化が繋がり合う料理の組み立て方だ」[4]。見た目やスタイルのような体面が取り除かれると、文化が無際限に混ざり合って新しいものが生み出される。「アグリー・デリシャス」が注目するのは、こうした絡み合いから生み出される料理だ。本場の、古くから継承された料理ではなく、移民とともに新大陸に持ち込まれ、時代のうねりとともに変化してきた料理。アメリカのピザやタコスも、イタリアやメキシコの文化がアメリカの土地に根ざした食材や様々な周辺文化の影響を受けながら生まれてきた。そこには高級も低俗もない。

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「アグリー」という言葉が示すのは、単にファイン・ダイニングに対するB級グルメであるとか、スローフードに対してのファストフードであるとか、伝統料理に対しての創作料理といったものではなく、こうした対立を生み出す、荒波のようにうねる〔ugly weather〕多文化の混淆のことなのである。

「アグリー(・デリシャス)」

『アグリー・デリシャス』は全8エピソードからなり、全体が「アグリー・デリシャス」というひとつのテーマに貫かれてはいるものの、各エピソードは独立している。語られるトピックもエピソードごとに異なり、エピソードが進むにつれて内容が展開していくという形式にはなっていないため、一見する限りではエピソード間の関連が見いだしにくい(すくなくとも私は本稿を執筆するにあたって何度か見返すなかでようやくわかったことがいくつもある)。こうしたある種のわかりづらさにもかかわらず本作が決して難解になっていないのは、意見をはっきりと述べ、感情を包み隠さないチャンのキャラクターに加えて、食欲をそそる料理の数々や、それについて語られる食べることの喜びがストーリーの随所に現れているからである。

だが、本作のこうした美点は、別な側面からは否定的に見ることもできる。様々な文化の料理に魅了され「美味しそう」「食べたい」と目を輝かせることは、食文化にふれる上で非常に重要な点ではあるし、それ自体批判されるべきことではない。しかし『アグリー・デリシャス』における「美味しさ〔delicious-ness〕」「美味しそうであること」は、本作においてすぐには読み解けない部分を、わからないまま安易に飲み込ませるように機能してもいる。チャンは、いくつかのエピソードの終盤に、テーマに関連した文化を混ぜ合わせた料理を実践するが、その料理を囲む出演者たちの姿は描かれていても、それがもつ意味については踏み込まれない。チャンの生み出す料理は、作品に登場するその他の料理のように語られたり、批評されることもないため、鑑賞者はその意義や可能性について、美味しそうな料理とそれを囲む人々の笑顔から想像するしかない。チャンの実践した「アグリー・デリシャス」の意義が十分に検証されないまま、「美味しそうな料理」で押し切られてしまうのである。

また、先に述べたように、チャンの「アグリー・デリシャス」というアイデアは、スタイルや形式よりもまず純粋に美味しさを求めようという考えがベースになっている。そこには本質的で普遍的な「美味しさ」と、人為的に生み出されたスタイルや形式という対立が念頭にあるように思われる。しかし、詳しくは後述するが「美味しさ」も決して本質的で普遍的なものではなく、それぞれ時代において主流な食のあり方によって生み出されているものである。「美味しさ」の無批判な希求は、文化を支えてきたスタイルや形式を不必要に毀損してしまうことにもなりかねない。「アグリー・デリシャス」の批評的な射程を検討するには、その「美味しさ」を一旦保留して、その味を検証する〔taste〕ことが必要なのだ。「デリシャス」と叫ぶまえに「アグリー」を味わうこと。そしてその喜びについて考えること。それが本稿の目的だ。

正統派への挑戦

「アグリー・デリシャス」が絶え間ない変化に曝されることによって生まれてきた混淆的な料理であることは先に述べた。多様な文化が混ざり合い、もはや「何料理かわからない」料理。その対極にあるのが、昔から変わらず作り続けられている伝統料理であり、特定の文化を代表するような正統派の料理だ。

長い歴史と伝統を誇る正統派の料理には、しばしば排外性がついてまわる。「〜以外は認めない」「こんなのは〜ではない」といった権威性に「アグリー・デリシャス」は対抗する。それは、正統派が、しばしば正しいひとつのあり方とその他の不純な亜流に文化を区分し、文化の源泉である多様な変化の可能性を抑圧してしまうからだが、それだけではない。正統派の正当性自体がそもそも不明瞭なものなのだ。すなわち、今正統派とされているものも、実際のところはさしたる理由もなくそうなっている場合があり、それによって過去の様々な実践すら抑圧してきた可能性があるということである。

こうした正統派の曖昧さやその(あえて言えば)ナンセンスに立ち向かうのが、「エピソード1:最高のピザとは」だ。先述の通り、ピザはアメリカの国民的な料理だが、もともとはイタリア系移民によって持ち込まれたものだ。そして、そのイタリアのピッツァの「本場」とされているのがナポリである。水気の多い長時間発酵の生地にシンプルなトマトソースとモッツァレラチーズ、バジルをのせ、高温のピザ窯で短時間で焼き上げる代表的なナポリピッツァ、マルゲリータは日本でもよく知られているが、このピッツァのかたちは実はある組織によって厳密に定義されている。

「ピッツァをナポリ発祥と位置づけ、正しい作り方で世界に広める」ことを目的に結成された「真のナポリピッツァ協会〔Associazione Verace Pizza Napoletana〕」(以下AVPN)は、ピッツァの正しい姿のガイドラインを制定し、それを忠実に守るイタリア国内外のピッツェリアの品質を保証する。ガイドラインでは生地の配合からチーズをはじめとした材料の産地や種類などが厳密に規定されており、そこから外れたものは仮に優れたピッツェリアであっても認定を受けることができない。

もちろん、ガイドラインの制定には必要性がある。イタリア有数の観光地であるナポリには、その重要な観光資源であるナポリピッツァの品質を安定させる必要があっただろう。しかし(それはすべてのガイドラインに言えることだが)、厳格な基準を設けることは、本来であれば弾かれるはずのないものまで弾いてしまう[5]。文化を形式に還元してしまうのだ。

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AVPNのガイドラインでは水牛のモッツァレラの使用が推奨されているが、それはマルゲリータが誕生したとされる1889年当時の作り方とは異なる。1984年のガイドラインの制定時には、マルゲリータで伝統的に用いられていた牛のモッツァレラがすでに衰退していたため、水牛のモッツァレラで代用することにしたのだという。もちろん、より厳格になるべきだと指摘することもできるが、それではおそらくAVPNが規定する「真のナポリピッツァ」は誰も作ることができず、廃れてしまうだろう。料理はその時代の他の生産物との関係の中で生まれるものだし、そうして生まれた伝統はその保存のためにこそ変化する必要がある。伝統や正統派とは、結果としての(ガイドライン化可能な)料理ではなく、それを生み出す志向性にこそ存在するはずなのだ。

ガイドラインに則った「真のナポリピッツァ」を調理することは、ナポリを離れるとさらに難しくなる。このエピソードのなかで、コペンハーゲンのピッツェリア、ビーストのクリスチャン・プリージは次のように言う。「正確なナポリピッツァは、カンパニア州からモッツァレラを輸入する。(中略)〔モッツァレラは、〕新鮮さが全てだと言われるが、作られてから1時間ごとに味は変化する。だが輸入したら7日かかる。ナンセンスだ。だから自分で作った」。

レシピが時代とともに変化するように、土地にあわせて変化するのもまた必然だ。真に正統派であるためには、正確ではいられない。ニューヨークのピザでは、より長く鮮度を維持できる乾燥させたモッツァレラが用いられるが、それがアメリカン・ピザの濃縮感のある旨味になっている。コペンハーゲンのピザも、NYのピザもそうやって作られてきた。これらは、ナポリピッツァの不完全な再現ではなく、その土地土地でのベストなピッツァを目指す営みであり、ピッツァの再創造とでもいうべきものだ。グルテン強めのもっちりとした食感のクラストに、しっかりと煮込まれたトマトソースのコクとブレンドされたチーズの複雑な風味は、ナポリピッツァにはないNYのピザの美味しさだ。それは、水分量の多い生地を長時間発酵させ短時間で表面をパリッと焼き上げた柔らかい食感のクラストと、フレッシュなトマトソースの酸味とモッツァレラの濃厚なミルクの香りを感じられるナポリピッツァの美味しさに決して劣るものではない。

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ガイドラインの弊害は、単に理にかなわないというだけでなく、それが人為的な産物であるということを人々に忘れさせてしまうことだ。ナポリピッツァは今まで様々なかたちで作られてきたはずだし、これからも変化していくはずなのにも関わらず、ガイドラインは、偶然そうであっただけでしかない今の状態を基準に据え、ピッツァが時代とともに作られてきたということを忘却させてしまう。時代と場所が変わればピッツァのレシピにも変化が求められる。時代ごと、土地ごとに優れたピッツァの担い手がそれぞれのやり方を生み出しているにも関わらず、ひとつの方法が覇権的になることによって、文化はその方法に適合した場所や人々に独占されてしまうのだ。

ピッツァを語るには、ナポリでの歴史は避けて通れない。しかし、南米原産のトマトが18世紀のイタリアで花開いたように、ピッツァの歴史も様々な場所で今に続いているのだ。鮮度の落ちたモッツァレラを使って正確なナポリピッツァを目指すことは、ナポリのナポリピッツァが最高のピッツァであり、その他の地域のピッツァはその不完全な再現であるという関係を強化することになる。連続的につながるはずの文化が、国家や地域で分断されてしまうのだ。

メインビジュアルについて:
ママロサ・ブリックオーブンピザのウォッカピザ。この店は今住んでいるところの近所にあって、テイクアウトしたものを食べました。店員はこのピザを「パスタ」と呼んでいます。かつてディスコでペンネ・アラ・ウォッカを食べていたお年寄りに人気のメニュー。(山本悠)
  1. [1]ネイティブ・アメリカンの文化としてはポップコーン、アフリカ系アメリカ人の文化としてはフライドチキンやホッピンジョン、リンピンスーザンなどのソウルフードが有名だろう。
  2. [2]本編字幕では「家庭で作る見た目勝負じゃない料理を店でも出していきたい。料理の幅が広がる〔Home cooking, or what I call “ugly delicious” food, has now become the food that I also wanna make in the restaurant. There’s a way to coax some more out of a dish〕」となっているが、タイトルになっている「ugly delicious」が日本語に訳されてしまっていて発言の重要性がわかりにくいので引用者訳とした。
  3. [3]以下、タイトルを表すときは二重鉤括弧で『アグリー・デリシャス』、料理や概念を表すときは単純鉤括弧で「アグリー・デリシャス」とする。
  4. [4]本編字幕では「高級感はない。トウガラシとイモと魚だ。パプリカならポルトガル料理になるし、ソーセージを使えば別の料理だ。でも辛さの中には甘さが必要だと思ってる。だからサツマイモやニンジンや春雨を使う。もう何料理か分からない。そうでしょ。それぞれの文化を尊重すれば組み合わせも自在だ。文化価値を下げず、縫い目なく織り交ぜるんだ〔This is really just a peasant dish of, like, peppers, potatoes and fish. If I cooked with paprika, you could almost say this is a portuguese thing. If I added sausage, it would be like sausage and peppers, right? But I didn’t, ‘cause I think it’s important to have sweetness when you have something really hot. We have sweet potatoes in there and carrots and mung bean noodles. So it’s like, “What the fuck are you eating?”. You know what I mean? If you try to respect these cultures, you can figure out how to merge them together without bastardizing any of it. How do you construct a dish where you can’t see the seams?〕」となっているが、文字情報だけでは発言の意味がわかりにくいので引用者訳とした。
  5. [5]ナポリの北、カイアッツォにあるペペ・イン・グラーニは優れたピッツェリアだが、シェフのフランコ・ペペは、ピッツァに自らの解釈を加えるため、AVPNを退会している。
永田 康祐

1990年愛知県生まれ。社会制度やメディア技術、知覚システムといった人間が物事を認識する基礎となっている要素に着目し、あるものを他のものから区別するプロセスに伴う曖昧さについてあつかった作品を制作している。主な展覧会に『あいちトリエンナーレ2019:情の時代』(愛知県美術館、2019)などがある。