小林うてなと『上弦の月を喰べる獅子』(夢枕獏 著)

Text: Kentaro Okumura

Book Review___10.17.2021

ベトナムの戦火で脳を負傷し、螺旋を幻視するようになった元カメラマン・三島草平と、北上高地でオウムガイの化石を見つけた宮沢賢治。異なる時代に生きるふたりは、それぞれの螺旋に導かれるままに時空を超えて解け合い、「蘇迷楼」(スメール)と呼ばれる異界に生まれ堕ちる。 “双人” となった主人公・アシュヴィンは、「私は何者か」という究極の問いを胸に、山頂を目指す修羅の旅に出る──。
夢枕獏によるこの大作SFを、蓮沼執太フィルに所属し、D.A.N.、KID FRESINO(BAND SET)のライブサポートやBlack Boboi、そしてソロと幅広く活動するアーティスト・小林うてなが話す

練られた構造への憧れ

 実家の私の最初の部屋の細い本棚にあったので、間違いなく父の本だと思います。初めて読んだのははっきり覚えていないけど、中学生ぐらいか、小学校の高学年かな。2回目は20代で東京に出てきてから、同じ装丁の古書を探して読みました。でも内容は一切覚えてなかったです。印象には残っていて、だから選んだんですけど、どこが好きかと尋ねられたらちょっとよく分からない(笑)。

 今までの理解度がゼロだったとしたら、今回でやっと4割から5割。3回目にして、仏教的な宇宙観を、螺旋状の二重構造で書いた本だと知って、また仏教だ! ってびっくりしました。というのも、前作(アルバム『6 roads』)は「六道輪廻」* をテーマにしているんですけど、最初から決まっていたんじゃなくて、でき上がった曲の物語をつないだら、自然と六道輪廻に行き着いたんです。「般若心経」や「色即是空」の意味も調べられたし、かなり久しぶりに読書をして、読書という行為自体にも興味を持ちましたね。すごく特殊な時間だなって。


*「六道」とは生前の行為の善悪によって、死後に行き先が決まる六つの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)

 映像を観るとき、音声は耳に、画像は目に入ってきますよね。マンガは目だけでも、絵で情報がかなり補われている。それらと比較すると、本は文字だけ。登場人物の像も浮かびそうで浮かばないし、耳は空いているけど聴く余裕もない。それが面白くて。読書って独特な時間軸に放り込まれるものなんだなと。

 私が『上弦の月を喰べる獅子』の中で一番素敵だなと思ったのは、元カメラマンの主人公・三島草平の「光は全てに平等である」というフレーズです。

 光は、どんな小さな生命や、砂のひとつぶずつにまで平等だ。
 カメラのレンズを覗いてみればわかる。
 カメラのレンズを覗くというのは、宇宙に触れてゆくことである。
 小さな花粉にも、光は届き、砂粒のひとつずつにまで光は当り、土の中から出てきたばかりの蟻の触覚の先にまで、宇宙から地球に届いたばかりの光が注いでいるのだった。
 天の慈悲のように、光はものにも生命にも平等である。その光の天のエネルギーが、生命を育ててゆくのである。

夢枕獏『上弦の月を喰べる獅子』ハヤカワ文庫、2011年、344頁。

 もともと構造物にとても関心があって、マンガやアニメが好きなのも「構築されて作られたもの」への強い憧れから。こないだ見たある映像では、フランスかどこかで郵便局の配達員をしている、元パン職人のおじさんが唐突に造った建築物が紹介されていました。彼は世界中の建造物に憧れがあったんだけど、建築の勉強をしたわけでもなく、たぶん実際に現地で見たわけでもない。にも関わらず、ある日突然石を拾い集めて建造物を造り出した。そのどこの国のものとも言えない建物がすごく素敵で、見た瞬間胸が躍り出しましたね。

 この本も構想から10年の年月を掛けて二重 “構造”に固執して書かれたもので、やっぱりいいなぁって思います。前作を出してから、まだ制作する気持ちにはなっていなかったんですが、先の映像とこの本によって、ちょっとやってみたいアイデアが浮かびました。先にまず「図面」を作って、そこに音を付ける。頭の中で作り上げた建物に対して、コンテンツとして音を当てはめるんです。図面といっても、落書きみたいなものになるかもしれないけど。今までは物語や抽象的・映像的なテーマを音にしてきたけど、最近はより実体があるような音を考えている、って感じですね。

自己救済から考えを深めるための制作へ

 そんなイメージがあるから、音楽への意欲はゼロではないけど、無闇に曲を作ることはなくなったかも。文脈が大切だと思ってからは、自分にとって文脈のない音楽をどう作るのか、作り方が分からなくなってしまった。

 それと、音楽に飽きているのもあると思います。悪い意味じゃなくて。自分にというか、自分を生きることに飽きるというか。だから、みんなにとっては当たり前なのかもしれないけど、今回のように課題図書として本を読むのも、自分を飽きずに生きるための一つの経験になりました。本を読むということと、読み切ったあとに気になったことを調べる。これが一番の収穫だったかな。

 飽きるっていうのは、たとえば、いつもとあまり変わらないセットリストのライブをやったとする。2週間後にまた同じセットでやるとき、そのライブに対してどういう気持ちで取り組めるか。曲が変わらないとして、そのわずか2週間で自分の中の何かが進化することなんか、相当大きな出来事がないと難しい。私はそうやって同じ感覚のまま、なにかを続けるのがつまらないって思う人なんです。もちろん、ライブまでに心境に変化を与える要素があればまた違うでしょうけど、なにもないまま継続するのは苦痛です。

 もうちょっと若い頃は、自分の音楽を作ることでそういう気持ちを解消してきたんだと思います。だから、サポートライブの楽屋でも、狂ったように曲を作ったりして生きてきた。今、その行為は必要じゃないです。だからといって精神的なバランスが取れているとは言えないけど、取れていないとも思わない。むしろ、バランスをとろうとする意思そのものが無い感覚なんだけど──これについてはまだ自分でもうまくまとめられないな。たぶん、前は音楽をつくることに、自己救済的な部分があったんだと思います。制作に取り組んでいる時間に救いがあった。少なくとも、今の段階での音楽は「自己救済」というより、考えを深めていくものになりつつあるのかなって。

 『6 roads』では「他者に救われる自分」という一面がありましたが、この筋書きが私と世界をつなぐトンネルを拡張してくれた感覚があって。今も「己」という存在については曖昧です。どこからが「己」なのか。主体としての “自分”と、意識下の “自分”は繋がっているのか、はっきりとしない。そういう不思議な時間の中にいます。この世界の中でどうやって生きていくのか考えるようになったのも、こうした感覚が一因なのかもしれません。なんとなくですけど、こうした考えと、三島草平の「光は全てにとって平等である」は、私の中で同じところにある気がしていて。それらを繋げていくことが、今の自分にとっての音楽なのかもしれません。

小林 うてな

長野県原村出身。東京在住。コンポーザーとして、劇伴・広告音楽・リミックスを制作。アーティストのライブサポートやレコーディングに、スティールパン奏者として参加。ソロ活動では「希望のある受難・笑いながら泣く」をテーマに楽曲を制作している。2018年6月、音楽コミュニティレーベル「BINDIVIDUAL」を立ち上げると同時にermhoi、Julia ShortreedとともにBlack Boboi結成。翌年、ダイアナチアキとともにMIDI Provocateur始動。ライブサポートでD.A.N.、KID FRESINO(BAND SET)に参加、蓮沼執太フィル所属。