2011年、ニューヨーク・ハーレム地区のフィールドワークを終えた中村寛は、友人であり映像作家の松尾眞とともに「アメリカの周縁/周縁のアメリカ」という共同プロジェクトを開始する。ニューメキシコ州アルバカーキ、アラスカ州アンカレッジ、ヴァージニア州シャーロッツビルなど、地理的、社会・文化的な周縁にある辺境の街で、さまざまな文化的背景や信仰をもつ住民と対話し、そのコミュニティに飛び込む。メディアやエンターテイメントを通じて形作られる強大な「アメリカ合衆国」の像から距離を置き、土地の空気を身体に取り込みながら、アメリカ社会全体を相対化しようとする試みだった。
ひとつの区画で特定の対象を調査した前作とは異なり、出会いと直感に行き先を委ねた約7年の不定期な旅。その途上で遭遇した出来事と風景を起点に社会の格差と差別について考察したのが、本書『アメリカの〈周縁〉をあるく』(平凡社、2021年)だ。インタビュー後編では、引き続き「あいだ」を手かがりとしながら、本書の執筆背景を伺う。
アメリカの姿を、一人の目で見てすべて身体に入れていく
──本書において「周縁」はどのように定義されているのでしょうか。
僕も整理し切れているとは言えないんですけど、ひとつは地理的、地政学的な意味での周縁です。地政学的に周縁にあるというだけで、さまざまな社会構造が見えるようになっていて、現在もアメリカとカナダやメキシコとの国境沿い、またプエルトリコなどの準州を調査するプロジェクトを進めています。もうひとつは社会的な意味での周縁。制度が整っていなかったり、潤沢な予算がなかったりなど、さまざまな工夫を強いられる場所ですね。それと、都市部などにも文化的な周縁というのがあって、移民などの少数派や新しい移住者が形成した文化表現や取り組みに興味があります。さらに言うと、博士論文を書いているときから意識していたのは、身体的な周縁──言語には明確に立ち現れないような表情やしぐさのようなもの、感情や感覚──をなるべく捉えたい、ということでした。ある種のゆがみや震え、言いよどみのようなものです。(取材時や対話において)すべて明確に語ってもらえると分かりやすいですけど、私たちは必ずしも明確に言語化できることだけで生きてはいません。そういったところを慎重に記述したいと思って努めてきました。
──旅先はどのように選定したのですか。
場所の選定方法については機縁法という方法があって、拍子抜けされるかもしれませんけど、要は人に教えてもらうんです。最初の旅はフロリダからオクラホマまで、何も分からない状態で、とにかくアメリカを横断してみようってところから始まったんですが、最後にオクラホマで立ち寄ったギャラリーで「サンタフェで先住民のアートフェスをやっているから、よかったら見に行ってごらん」と教えてもらって、次の旅先がニューメキシコになりました。
そのニューメキシコでは先住民にたくさん出会い、今度は島の先住民に会ってみたいという話になって、モロカイ島とハワイ島に行くことになり、暑いところに行ったから今度は寒いところに行ってみようと、アラスカへ。アラスカは準備不足で奥まで入れなかったんですが、そうこうしてるうちに、今度はニューメキシコで知り合った人から電話があって、再訪することになり……と、旅をしていくうちに、次の選定地が現れてくるという格好でした。
──調査のフィールドを日本の集落や小国などではなく、アメリカという経済的、文化的、政治的など、あらゆる意味においての大国を選んだのはなぜですか。
個人的なことを話しますと、2歳〜3歳ごろと、高校時代をアメリカで過ごしたこともあって、日本語と英語の両方が身体化された言葉であるように感じています。と同時に、どちらにもすわりの悪さというか、居心地の悪さもあり、日本語も英語もどこまでいっても言葉が不足していて、使いこなすことはおろか、うまく折り合いをつけられていない感じがあります。だから僕にとってアメリカと日本は考えざるを得ない相手なんだと思います。日本についてはこれまで取り組めてこなかったんですが、今まさに始めている最中で、ふたつの国を往復しながら考えることが、ライフワークになっている気がします。その前提で言うと、「アメリカの〈周縁〉をあるく」この旅プロジェクトもまだ途上のつもりです。一冊書き終えてもまだ訪れてないところはあるし、少なくとも全州は回りたいと思っています。
微々たるものですが、この7年間で7回ほど旅をしてきた感覚で言うと、アメリカというのは巨大な農地と森林を抱えた田舎です。地域の特殊性が非常に強く、「アメリカ」とひとくくりに語ってしまってよいのか、ずっと違和感がありました。私たちはついハリウッド映画やNetflixのドラマ、ニュースなどを通じて「アメリカ」を語ってしまいがちですが、そうした語られ方とは全く異なる「アメリカ」が複数あって。民俗学者の宮本常一ではないですけど、その姿を一人の目ですべて見て身体に入れていくことは、すごく重要なことなんじゃないかと思います。戦前、宮本の師であり支援者だった渋沢敬三が、宮本に「今すごく重要なことは、1人の目で日本をくまなく見ておくことじゃないだろうか」と言ったのですが、宮本はそのとおりに動き、日本中をくまなく歩いて見てきた。それをアメリカでやるつもりで、くまなく見てみたいなと思っているんです。
2015年、松尾眞撮影。アラスカ州アンカレッジの宿泊地にて。 2015年、松尾眞撮影。アラスカ州ノースポール。寒空を鳥たちが舞う。
さらに言うと、人類学者のシドニー・ミンツは『アフリカン・アメリカン文化の誕生』の中で、アフリカン・アメリカン文化を、アメリカ合衆国だけではなく「南北アメリカに連れてこられたアフリカ人たちがつくった文化」として捉えています。彼がカリブ海地域でフィールドワークをしていたことも関係していますが、実はそう捉えたほうがうまく見られる問題がたくさんあって。たとえば北米に連れてこられたアフリカ人の数よりも、はるかに多くが中南米に連れてこられたんです。にもかかわらず、人種問題が激化し、今も色濃く問題が残っているのはアメリカ合衆国です。もちろん中南米にも人種問題はありますが、ではこの違いは一体なぜ起こるのかという点については、相対化したほうがいい気がしています。
また、これはいろんな方が言われていることだとは思いますが、アメリカ合衆国という国自体が特殊な文化を内包していて、強力な経済力、軍事力、政治力によって、とくに20世紀から21世紀にかけて、パッケージ化した文化表現を諸外国に発信することに大成功しましたよね。ハリウッドを挙げるまでもなく、学術も、大学の制度づくりも、美術も、音楽も、デザインも、イノベーションのあり方も、コカ・コーラも、マクドナルドも、ディズニーも、全てアメリカからやってきた。そしてアメリカによって戦争が引き起こされると、反戦歌や反戦映画といった「反戦文化」もアメリカから発信され、差別の問題がアメリカで起こると、その差別の認識論──レイシズムやセクシズム、ハラスメントのような概念──を使って、日本の社会制度や文化も改革を迫られ変更を余儀なくされ、今度はそれによって補償運動が起きて……と、とにかく影響力がものすごいわけです。すべてアメリカのようなやり方で問題化され、アメリカのようなやり方で問題解決をしなくてはいけないパッケージになっていて、そうしないと、人や魂が救済されなくなっている。これらを相対化するためにも、アメリカ全体をもうちょっと突き放して見てみたいなと思っています。
マイノリティについて書くということは、マジョリティについて書くということでもある
── 自分自身にもアメリカ的な価値観が内面化されている部分があると感じます。
もうひとつ言わなくてはいけないのが、そうした流通品がアメリカで生まれたものではあっても、アメリカ人によって作られたアメリカ「固有のもの」とは言えないかもしれない、ということです。ディズニーやハリウッド映画、あらゆるプラットフォーム、アメリカ車、さまざまなプロダクト……こうしたものですら、実は移民が持ち込んでいたり、彼らが新しく作ったものかもしれない。昨年亡くなった人類学者のデヴィッド・グレーバーが、『民主主義の非西洋起源について』(以文社、2020年)という、非常に示唆に富むテクストを残しています。彼はこの中で、私たちはつい民主主義という概念を西洋起源としてしまうけれども、そこに根拠はまったくない。民主主義の原型が最初に出てくるのは海賊船の上であり、そうした即興的な空間だとはっきり言っています。合意形成のあり方や、対等な人間関係を構築しようという考え方はどの社会にもあって、アメリカやヨーロッパの民主主義だけを民主主義だと考えるのは誤りであると。
この本でもうひとつ重要なこととして、代議制と民主主義は無関係であるとも書かれています。代議制は民主主義を支える一番合理的な仕組みとされていますが、本来の民主主義のあり方には反している。グレーバーによれば、アメリカ民主主義の建国の父と呼ばれるような人たちは、建国の段階では民主主義をポピュリズムに結び付けて、危険な思想だと批判していました。時代がかなり進んでから認めざるを得なくなって、民主主義をアメリカの理念にしようと言い始めるんですけど、最初の段階では明確に敵視していた。共和制には賛成だけど、民主主義は今日で言うところのアナーキズムのように理解されていたと。このように、民主主義を非西洋起源のもので、共和制や代議制とは異なる合意形成と人間関係構築のソーシャル・デザインとして捉えると、日本のさまざまなコミュニティーにある合意形成のあり方──たとえば宮本常一が記録に残したような、古文書を貸し出すのに3日間ずっと話し合って、全員が満足する形で合意形成を目指すという村の寄合──を、ひとつの土着の民主主義のあり方だと言えなくもないと思うんです(宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫、1984年)。
なぜ小国ではなくアメリカなのか、という点についてもう少し付け加えます。ヨーロッパ人が非ヨーロッパ人を書く、というのが(ここまで単純ではありませんが)初期の人類学の流れでした。70〜80年代にその不均衡を指摘する声が学問、ジャーナリズム、文芸、美術などの領域で広まり、さらにネイティヴ・アンソロポロジーの潮流によって、それまでの傾向への批判が高まっていきました。しかし、今でも日本語圏出身者なら、欧米に留学して人類学の学位を取得して日本を研究するというのが一般的な流れだと思います。メキシコ出身ならメキシコから欧米に留学してメキシコを研究する、とかですね。
要はどこの出身だとしても、理論的な枠組みは欧米で習わないといけないようになっているんです。ある時期まではこの “ねじれ” に僕も乗ろうとしていましたが、いろいろな理由があって乗り切れませんでした。人類学という西洋起源の学問に訓練されたところまでは同じですが、「非欧米人であり非白人である私が、欧米を対象にして書く」というのが、『残響のハーレム』でのチャレンジでした。そして『アメリカの〈周縁〉をあるく』では、アフリカン・アメリカンやアメリカ先住民を含め、さまざまなマイノリティを含むアメリカという対象をアメリカの周縁から見ていく、というねらいがあります。
──これまでの人類学の流れから意識的に離れようとしていたんですね。
だけど最終的には、マイノリティを学問するということは、彼らのことを知りたいという以上に、彼らをマイノリティ化させている社会制度を知りたい、ということでもあって。だからマイノリティについて書くということは、マジョリティについて書くということでもある。そういう目線でものごとを捉えたいと思っています。エスノグラフィやジャーナリズム、あるいは社会学といったものが、集団を記述し分析して、その人たちの現在の状況を同定しようとする学問だとすると、人類学はそれを基礎にしながらも、そこから離れて問いを立てたりすることで、カテゴリーを突き動かす、壊していくような役割を担っている。この両方がないと、人類学という学問は動いていかないと思っています。
2013年、松尾眞撮影。モロカイ島ハラヴァの森の中、アンクル・ピリポの語りに耳をすます。 2013年、松尾眞撮影。モロカイ島ハラヴァ。アンクル・ピリポのタロイモ畑。
暴力への結実を防ぐインフォーマルなメディエーター
── ニューメキシコでは、先住民にルーツをもつ家族のひとりが、「村(コミュニティ)」と「外」の間に立って、問題があったときに橋渡しする、仲介する役割を担っていた。そのことについて「《反暴力》の仕事を、彼や彼女らは引き受けてるように見えた」と書かれていました。『トイビト』によるインタビューでも言及されていましたが、現在は反暴力の仕組みやはたらきへとご関心が移っていらっしゃるんでしょうか。
そのとおりで、暴力のメカニズムに関する研究は進んでいて、ある程度のことは分かってきましたが、暴力を実際に止めるには至っていません。公民権運動やマルコムXのブラック・パワー、あるいはアートで批評するような反暴力の表現はたくさんあるのですが、どうにか暴力を「止める」ための手立てはないのかと、ずいぶん探してきたんです。そんな中で関心を持ったのが、たとえば修復的司法のあり方──暴力が起きてしまったあと、懲罰的、報復的な形ではないやり方でどのようにそれに触れるのかという、一連の取り組み──でした。
調べていくと、治癒的共同体を提供している人たちなど、修復的司法に取り組んでる人たちが見つかって。この概念について考えているうち、そういえばハーレムでフィールドリサーチをしているときも、いつ暴動に発展してもおかしくないような瞬間ですら誰かが仲裁に入り、暴力へ結実する一歩前で止まっていたなと思い出したんです。どれだけ不平不満を述べても、決して攻撃まではいかなかった。
── ふきこぼれる寸前にその場の誰かが諭すことで、悲惨な事態を免れていたんですね。
そうです。修復的司法の中では紛争当事者のあいだに立つ人のことを「メディエーター」や「ファシリテーター」というんですけど、聞いたことありますか?
── いえ、初めて聞きました。
従来の刑事裁判だと裁判所の判断による強制力はあるものの、争いが国対加害者の構図になってしまい、被害者(あるいは遺族)が当事者でなくなるうえ、仮に裁判所の判断が満足いくものであっても、傷はまったく癒えないままです。また、加害者(起訴前は被疑者、裁判中は被告人)も自らがなにを傷つけ、どのように償いうる(えない)のか、具体的な加害に対する責任やその意味が不明瞭なままに、法に反するかどうか(国が刑罰権を行使可能かどうか)だけが問われる。つまり、被害者と加害者、両者ともに不満が残って終わってしまう。さらに、当事者を取り巻くコミュニティのメンバーも、いわば蚊帳の外に置かれたままです。そのことに気が付いた人たちが、こうした修復的司法の仕組みを制度化しようとしたようです。
もっとも、そうした人たちも気づいているように、修復的な試みはすでにさまざまな文化圏に内在してきたものでもありました。メディエーターを直訳すると、「仲介者」でしょうか。刑事事件だけでなく、戦争のような大きな争いから、家族間(内)の争い、近所同士の喧嘩、学校内でのトラブルなどにも適用されます。わかりやすい例で言うと、たとえばいじめのように、加害者を罰して退学にしたところで何も解決しないケースってあるじゃないですか。そういう問題に関しては、メディエーターの訓練を受けた先生が間に立つことで対話を促し、よりよい解決に結び付ける方法です。被害者を癒やし「修復」しようとするのと同時に、加害者をもコミュニティーに戻す、というのが基本的な考え方なのですが、殺人罪や性犯罪といった一見すると難しいケースにおいてもメディエーションが取り入れられるケースがあるようです。[1]
ハーレムのストリートやアメリカ各地の先住民コミュニティーでも、こうしたことにインフォーマルに従事してる人たちがいて、僕はそういう人を「インフォーマルなメディエーター」と呼んでみたいなと考えています。彼らは洗練されたメソッドは持っていないかもしれないけれども、どちらの側にも首を突っ込んで話をちゃんと聞いて、しかるべきタイミングで仲裁する方法を採っていました。
── こうした役割を担っている人たちがわれわれの周りにもいる、ということでしょうか。
きっとどこにでもいるんだと思いますが、アフリカン・アメリカン・コミュニティーの中でのうごきに注目しています。黒人たちの暴力は同じ黒人に向かうことが多かった。だからこそ、自分たちで殺し合うのは無意味だと気が付いている人たちが、たとえばギャング同士の争いがあったあと、当事者を元のコミュニティーに戻そうとする試みがあるのだと思います。『残響のハーレム』以外で言いますと、たとえば坂上香監督の『ライファーズ──終身刑を超えて』(2004年)というドキュメンタリー映画には、そうした場面が描かれています。
── 中村さんの暴力のメカニズムの研究は、そうした試みやインフォーマルなメディエーターの調査ということになっていきそうですか。
そうですね。同時に、もう少し大きな仕組みづくりとか、対話をする場づくりについても取材したいと思っています。日本でいうと、水俣病によって分断されたコミュニティーや人間関係を修復する「もやい直し」という取り組みがあります。水俣病の原因はチッソという企業が水銀を垂れ流したことでしたが、被害者と同じ家族やコミュニティのメンバーがチッソで働いていたこともあって、「被害者/加害者」と簡単に切り分けられないんです。そうした点がコミュニティーの分断へとつながってしまったのですが、これをもう一度修復しようと呼び掛けた人がいて、私はこれもひとつのメディエーションだと思います(吉本哲郎『地元学をはじめよう』岩波ジュニア新書、緒方正人・辻信一『常世の舟を漕ぎて 熟成版』SOKEIパブリッシング)。
反目していた双方から「お前は裏切り者だ」と言われる覚悟で間に立ち、信頼回復にまでこぎつけていく。そういうインフォーマルなメディエーターたちの試みはもちろんのこと、彼らがつくりあげ担う広い意味でのソーシャルデザインにも注目したいと思っています。
- [1]修復的司法についてはすでに多くの文献がありますが、たとえば、以下の文献を挙げておきます。(中村)
マーク・オースティン・ウォルターズ『ヘイトクライムと修復的司法──被害からの回復にむけた理論と実践』明石書店、2018年
小松原織香『性暴力と修復的司法──対話の先にあるもの』成文堂、2017
ジョン・ブレイスウェイト(細井洋子・染田惠・前原 宏一・鴨志田康弘訳)『修復的司法の世界』 成文堂、2008
高橋則夫『修復的司法の探求』成文堂、2003年
山下英三郎『修復的アプローチとソーシャルワーク──調和的な関係構築への手がかり』 明石書店、2012年 ↩