「意味のないことがら、あるいは共有できない記憶の断片」 第二回・帰り道: 樋口恭介

Text: Kyosuke Higuchi

Photography: Rie Suzuki

Series______5.6.2021

 魔法は解ける。
 目に映るものは消えていく。
 けれど本当は、失われるものなど何もない。

    *

 歩きながら読める本があるといい。
 歩きながら書ける本があるといいと思う。
 本当は、歩くことは読むことであり、歩くことは書くことであるにもかかわらず、そういうことにはなっていない。不思議なことだ。歩いているとき、頭の中ではいつも、新たな本が読まれ、新たな本が書かれ続けている。

 歩くのが好きだ。僕はいつも歩いている。僕が歩くのが好きなのは、僕が本を読むのが好きだからだと思う。世界を読む、というのは使い古された陳腐な表現ではあるものの、歩いていると、どうしても自分の思考以外の情報を得てしまうのだから、まさに何かを読んでいるとしか言いようがない。本を読むときに、目的はあってもなくてもいいように、歩くときにもまた、目的地はあってもいいし、なくてもいい。誰かと一緒に同じ本を読んでもよければ一人で読んでもいいように、誰かと一緒に歩いてもいいし、一人で歩いてもいい。いずれにせよ、歩くことで風景は流れてゆく。前から後ろに向かって、目に映るものは僕の身体を横切っていく。思考は変遷を遂げてゆく。言葉が放たれたあとには、最初からそんなことを考えていたわけではないのにもかかわらず、あたかも最初から、言葉が生まれるその前から、言葉が引き連れるその思考は、いままでずっとそこにあったかのように見えてしまうのがおもしろいと思う。そしてそれは、変わることなくそこにあり続けるものであるかのように感じられることも。

 歩くこと、読むこと、考えること、書くことは、とても似ていることだと僕は思う。
 視界に風景が入り込み、風景から思考が立ち上がってくるその感覚を、僕は深く愛していると思う。

 僕はいま、歩きながら書いている。
 もちろん本当はそうではない。
 歩きながらでは書くことはできない。
 止まらなければ書くことはできない。
 困ったことだ。
 歩くことについて書くと書く僕は、正確には、歩いたことについて書いている。
 そういう嘘が、書くことにはついてまわる。つねに。すでに。あらゆる文章に平等に。

 このあいだ、大学時代の先輩が仕事で名古屋に来た。彼は大学を卒業してから新聞社に勤め、東京を離れて各地を転々としていた。いまは大阪にいると彼は言った。名古屋には土日のあいだいると彼は言った。日曜に仕事があると彼は言った。先輩から連絡があったのは土曜の夜、21時を回ったころのことだった。僕はその日のほとんどの家事をすでに終えていた。夕飯を作り、夕飯を摂り終え、皿を食洗機に突っ込んだ後だった。あとは子供を風呂に入れて、子供を寝かしつけて、それで一日が終わる。それから、夜をどうやって過ごそうかなと考えていたところだった。僕はお茶を飲みながらスマートフォンを手にとった。見知らぬ電話番号から着信があった。というか、僕は人の電話番号を登録しない主義なので、すべての電話番号は見知らぬ電話番号なのだった。080から始まる携帯電話の番号だったから、たぶん知り合いだろうと思い、電話をかけ直した。こういう仕草の一つひとつについて、何も考えずになんとなく書き始めてしまったが、めんどうになってしまったし特におもしろいこともないので、ここから先は省略するが、要するにそれは大学の先輩で、いまから会おうということになった。子供の風呂と寝かしつけを妻に頼み込み、僕は家を出た。先輩は錦にいた。電車に乗り、亀島から栄に向かった。栄から錦に向かって歩いた。

 家を出て10分ほど経って、先輩と錦のホテルのロビーで落ち合った。本当はすぐに落ち合ったわけではないが、詳細は覚えていないため措いておく。指定されたホテルに着くと、なぜだかそこに先輩はおらず、僕はロビーのソファに座り、それから腹痛を覚えたのでトイレに入った。便座に腰掛けてTwitterを眺めていたら、電話が鳴った。それから僕はトイレを出た。便は少ししか出なかった。腹はまだ痛かった。

 ロビーに出ると、ソファに腰掛けている先輩を見つけた。いや、立っていたかもしれない。いずれにせよ、先輩はそこにいた。彼はマスクをしていたがすぐにわかった。僕もマスクをしていたが、彼も僕だとすぐにわかったようだった。それは当たり前のことのようにも思えるし、すごいことのようにも思える。僕らはここ一年ほどの時間を使って、顔の上半分だけで人を識別する能力を身に着けてきた。僕らは互いを認めると、手を振りあって、「ウォーイ」と、大学生のような挨拶を交わした。僕らはあいまいに笑い、その場でグニャグニャと揺れながら、一つか二つ、適当な言葉を交わした。それから僕らは歩き始めた。どこに向かうべきかはわからなかった。先輩はもちろん名古屋の街のことなど知らなかったし、僕も名古屋の街のことはほとんど知らなかった。どこにどんな景色があるかは知っているが、どんな名前を持った何の建物なのかとか、そういう具体的な情報は何もわからなかった。僕はそういう人間だ。感覚と記号を結びつけることができない。僕らには計画がなかった。とりあえず僕らはホテルを出た。外に出て、少しのあいだ辺りを見回した。どこかの店に入ろうということにはならなかった。錦は人がたくさんいてなんとなく怖かった。僕らは錦を出て、大通りに出た。大通り沿いをなんとなく歩いた。適当にぶらつきながら、途中でいい感じの店があれば入ろう、ということになった。僕らは名古屋の街を歩き始めた。繁華街を抜けた。観覧車の下を歩いた。居酒屋はどこも満員だった。そこに入っていく勇気はなかった(はっきりとは言わなかったが、僕らは二人とも、新型コロナウイルス感染症を怖れていた。僕らは人混みを避けていた。それが暗黙の前提になっていた)。僕らはあてもなく矢場町のほうまでぶらつき、横断歩道を抜けた先にあるローソンに入った。そういうふうに決めたわけではなかったものの、そこで適当なビールを買い、高架下で乾杯した。缶ビールを飲みながらふたたびあたりをうろつき始め、飲み干したところでまた、近くのコンビニで新しいビールを買った。僕らはそれを繰り返した。高架下のコンクリートの上に、潰れた空き缶の山ができた。久しぶりに煙草をバカみたいに吸った。味は覚えていない。味などとうにわからなくなっていた。
 錦に戻って、どこかの公園に辿り着いたころには、僕らは完全に酔っ払ってしまっていた。深夜にもかかわらず、繁華街のその公園は、多くの人で賑わっていた。その公園にはバスケットゴールがあった気がするが、それは別のどこかで見た風景のような気もする。そこには、スケートボードに乗る練習をする若者たちや、ダンスをする若者たちや、スピーカーで音楽を鳴らして歌う若者たちがいたような気がするが、深夜の繁華街に、そんな空間が生まれうるのかどうかは心もとない。少なくとも、その夜以外にそんな風景を見たことはない。映画やドラマで観たのではないか、と言われれば、そうかもしれないというのが答えになる。それより以前に、現実ではないどこかの場所で、そんな風景を見たことがあるような気がするし、そうでもないような気がする。僕らは夜が深くなるまでそこでビールを飲み、いろんな話をしたが、何を話したかは思い出せない。ただ、何かを話したような感触が残っているだけだ。すべては夢だったと言われればそんな気もするし、そんなことはなかったと言われればそんな気もする。そういう思い出を持ちたいという欲望が僕にはあり、虚実を問わず、そういう思い出を作ろうとする心のはたらきが僕にはある。
 僕は歩くのが好きだった。夜が好きだった。
 僕は好きだった。夜の闇の中でバスケットボールで遊ぶ若者たち、スケートボードに乗る練習をする若者たち、ダンスをする若者たち、スピーカーで音楽を鳴らして歌う若者たちを。

    *

 ところで、何かを書いていて、書きたくなくなったら書くのをやめたほうがよい、というのが僕の流儀である。でもそれでいいのかどうかはわからない。そうすることで、途中で終わっている小説がたくさんある。めんどうなところを乗り越えてこそ、傑作が書けるという話はわかるし、実際、多くの小説はそうやって書かれているのだと思う。僕は単に、そうはしたくないというだけだ。だって疲れてしまうから。

    *

 だからこの話はもう終わりだ。

 次の話に移る。
 21世紀を迎えた瞬間にもまた、僕は歩いていた。そのとき僕は11歳だった。家で年越しそばを食べたあと、自治体が運営する広場へ一人で向かった。誰かと約束をしていたわけではないが、そこに行けば誰かに会えるような気がしていた。子供の世界というのはそういうものだ。大人の世界にはそういうことはない。広場では豚汁やうどんやそばが振る舞われていた。僕は何かを食べたような気もするが、何を食べたのかは思い出せない。そう思い込んでいるだけかもしれない。ちらちらと電球が灯る人混みの中で、僕は友達を見つけた。友達は二人でいた。彼らの名前はここには書かない。一人は親のいない子供で、一人は韓国人の子供だった。僕は彼らと何かを話したが、何を話したかは覚えていない。小学生の頃に交わした会話は、今では何一つ思い出せない。僕ら三人は何かを話し、どこかに向かって歩き始めた。小さな町だった。町全体が、祭のときのような雰囲気に飲み込まれていた。
 そう言えば、広場ではじゃんけん大会のような催しものが行われていた。僕はそこに参加した。僕はそれを楽しみにしていた。大会が始まると、僕はすぐに負けた。そのとき僕がどう思ったのか、いまの僕には思い出せない。勝った人が、町内会の会長から何かをもらっていた。旅行券だか商品券だかだったと思う。僕は遠くのほうからそれを眺めていた。特にうらやましいとは思わなかったことだけを覚えている。そのあとでカウントダウンが始まった。広場の奥、ステージ上のスクリーンにデジタル時計が映し出された。時計が23:59:00になったとき、カウントダウンが始まった。町の人々みんなで60秒数えた。数えるごとに声が大きくなった。残り10秒で声はより一層大きくなった。24:00:00になる瞬間、小さな花火が打ち上がり、その場にいた人たちみんなでジャンプをしながら歓声を上げた。
 その広場は今はもうなく、駐車場になっている。そこに集まる人はもういない。大人になってから来てみると、やけに小さい場所のように見える。そんなところに町中の人たちが集まっていたとはとうてい思えない。たぶん、その記憶も、別の何かの思い出と混ざっているんだろうと思う。
 カウントダウンが終わったあとで、僕ら三人は神社に向かった。神社にはどうやって向かったのだったか、いまの僕は覚えていない。広場から神社までは歩いて20分くらいかかる。大人はいなかったと思う。実際のところはよくわからないが、そういう記憶があるのだから、僕らはたぶん、子供だけでその道程を歩いたのだろう。神社に着くと、大人たちがドラム缶の中に新聞紙や薪やゴミを入れて、焚き火をしていた。餅や焼き芋を振る舞っていた。僕らは焚き火で暖をとりながらそれを食べた。近所のおじさんが甘酒を配っていて、僕らは受け取って飲んだ。本当なら、そこで帰るはずだった。家を出るとき、初詣に行ったら帰ってくるよ、と僕は親に伝えていた。
 僕らは歩いたことのない道を選んで歩いた。というか、神社から先は歩いたことのない道ばかりだった。小学校を越えた先に「わんぱくこぞう」というゲームショップがあって、その先には「サティ」がある。「サティ」には母親の買い物についていって、車や自転車では行ったことがある。でも歩いて行ったことはなかった。僕ら三人のうち誰も、「サティ」まで歩いたことはなかったし、当然ながら「サティ」の先がどうなっているのかは誰も知らなかった。昼間の「サティ」にはたくさんの人がいた。僕はそこで、限定のガンダムのプラモデルや遊戯王カードを母に買ってもらった記憶がある。お父さんには内緒でね、と母は言っていた。その頃の僕は今の僕とは違う。今の僕はガンダムのプラモデルを買うこともなければ遊戯王カードを買うこともない。その頃の僕は小説を読まなければ映画も観ない。音楽も聴かなければインターネットに触れたこともなかった。その頃の僕と今の僕はまったくの別人だ。それでもなぜだか、同じ記憶を共有し、同じ人間であるとされている。僕の中には僕ではない僕らがいる。僕らが僕の歴史をつくっている。奇妙なことだ。
 けれどもこうとも言える。今の僕はガンダムのプラモデルを集めていた僕のことを知らない。遊戯王カードを集めていた僕のことを知らない。小説を読まなかった僕のことを知らない。映画を観なかった僕のことを、音楽を聴かなった僕のことを、インターネットに触れなかった僕のことを、僕は永遠に知ることはない。僕らは今の僕によって、再帰的に創造されている。だから、僕という人間には今の僕にしかおらず、過去の僕など存在しない。
 真夜中の「サティ」には誰もいなかった。僕らはロープをくぐって中に入っていった。僕らは「サティ」の駐輪場をぶらぶらと歩いた。誰かが「なんかすげえな」と言った。僕もそう思った。ぶらつく以外、特に何をしたわけでもないが、そのときの僕には何か特別なことをしているかのような感覚があった。しばらくのあいだぶらついて、やがてそうすることにも飽きてしまうと、僕らは「サティ」の敷地を出た。僕らはその先に向かって歩き出した。
 「サティ」の先には何があるのか、僕らは知らなかった。僕らは何も知らずに歩き続けた。何も知らないから歩き続けられたのかもしれない。ときどき道の端っこにAVやエロ本が落ちていて、僕らはそれらを指差してはしゃいだ。トラックやパトカーが僕らの横を通り過ぎるたび、僕らはおどけて笑い、興奮にまかせて奇妙な叫び声を上げた。国道が続き、歩道にはところどころ雑草が生えていた。歩いている人は誰もいなかった。誰もいなかった。僕ら以外には誰も。それが夜だった。夜の道は異世界だった。僕らは異世界を歩いていた。それは一種の冒険だった。

    *

 そう。
 いろんな場所を歩いていた。
 それは羽島だった。
 所沢だった。
 高田馬場だった。
 宝塚だった。
 名古屋だった。
 旅行をするのは好きではないが、旅先を歩くのは好きだ。それは旅行が好きだということかもしれないが、特に何をするわけでもない。それは旅である必要はない。僕は住んだことのない街で、その街で暮らす自分をイメージする。旅をして、旅先で、いつも通りに過ごしている。歩き、本を読み、昼寝をし、何かを書いたりもする。それが旅なのだろうか。わからない。僕は、生活が好きなのだと思う。

    *

 話を戻そう。

 家に帰るとすっかり朝になっていた。家族はみんな起きていた。僕は母親にひどく怒られた。その日から、我が家にも門限というものがつくられた。当時の子供は誰も、携帯電話なんて持っていなかったから、あらかじめルールをつくる必要があったのだ。僕は雑煮を食べたあと、母親が沸かしてくれた風呂に入り、それから眠った。

 21世紀はやってきた。
 けれども20世紀が終わったようにも思えなかった。
 目が覚めると僕はまた歩き始めた。
 見知らぬ街を、自分の街にするために、僕は歩き続けていた。
 歩く場所は変わっていったが、歩くということ自体には、何も変わるところはなかった。それは、10年経っても、20年経っても同じことだった。

 大学時代は、埼玉県の所沢という町に住んでいた。部屋は古いアパートだった。家賃は3万円とちょっとだった。大学からは少し離れていたが、金がなかったのでそこに住むことにした。大学は半年間留年し、そのアパートには結果5年も住んでいたので、所沢に対しては、今もかなりの愛着がある。
 所沢駅を出てすぐに、プロペ通りという商店街がある。その先に四階建てのブックオフがあって、僕はいつもそこにいた。所沢から高田馬場までは30分ほどかかる。通勤・通学時間としてはそれほど長いわけではないが、大学時代の僕にとってはそうではなかった。一限の時間には起きれなかった。昼頃に目を覚まし、テストの時間に間に合わず、単位を落としてしまったことを確信すると、僕は現実から逃げるために、プロペ通りのブックオフに入った。280円で買えるCDを物色し、980円のDVDを物色し、100円の漫画と本を物色した。バイトの給料が入ると、1万円札を握りしめ、買えるだけの本を買った。100冊ほどの文庫本は想像以上に重く、藍色のビニール袋を二重にしてもらって持って帰った。袋の持ち手は腕に食い込み、指先は鬱血して冷たくなった。それを毎月繰り返していた。大学時代の僕の家は、所沢駅のブックオフでできていた。

 僕は岐阜県の羽島市という場所で生まれ育った。埼玉県と岐阜県は似ている。海がなく、山に囲まれている。町のいたるところに美しい川が流れている。生活圏は田舎でも、電車で少し行くと大きな都市に出られる。所沢は少し都会すぎるような気もするが、たとえば本庄市などは本当に羽島に似ており、Google画像検索で「埼玉県本庄市」と検索すると、強烈なノスタルジーに襲われる(本庄市に限らず、僕は埼玉県のいろんな町の名前で画像検索をしては、そこで暮らす自分の姿を想像することがある。奇妙な習慣だと自分でも思う)。もちろんそこで暮らしたことなどないのだが、景色をじっと眺めていると、そこで暮らしたことのあるかのような記憶が、鮮明に蘇ってくる。そういうことが多くある。故郷によく似た、故郷ではない、まったく知らない空間に、故郷よりもずっと深い郷愁をいだくということ。

 数年後、仕事で宝塚という町にいた。社会人になって最初の年だった。僕は宝塚が好きだった。宝塚も山に囲まれた町だった。僕は会社が用意したマンスリーマンションに寝泊まりしていた。マンスリーマンションは山の中にあって、朝になると、あたり一面が落ち葉にうもれた。プロジェクトルームは徒歩で30分ほど行った場所にあり、僕は毎朝、落ち葉を踏みしめながら仕事に向かった。
 仕事は毎日深夜まで続き、大変だったが、宝塚の町を歩くのは好きだった。夜の川べりを一人でよく歩いた。一人で缶ビールを持って歩き、水面に映るホテルの光を眺めていた。夏だった。ホテルの中から、家族連れの笑い声が聞こえてきた。労働の疲れとアルコールで鈍った頭の中で、僕は子供の頃に家族で旅行に行ったときのことを思い出したりもした。嘘だ。そんな事実はどこにもない。

 小学生のとき、近藤くんという友達がいた。近藤くんの家には漫画がたくさんあった。僕は近藤くんの家でよく漫画を読んだ。僕が漫画を読んでいるあいだ、近藤くんはゲームをしていた。僕らは会話を交わさなかった。僕らは話すのがあまり得意ではなかった。僕らは話すのがあまり好きではなかった。近藤くんが何かを言うとき、近藤くんはアニメや漫画やゲームの台詞の引用だけで話した。それは台詞ですらないことがあった。むしろそのほうが多かった気がする。近藤くんの言葉は、擬音や効果音であることが多かった。僕らが話すとき、僕らは擬音や効果音で話した。だから、僕は近藤くんがどういう人間なのか、あまり詳しく知らなかったし、近藤くんは僕がどういう人間なのか、あまり詳しく知らなかったと思う。けれど僕らは友達だった。

 虚構が見知った世界を見知らぬ異世界に変え、出口のない、平坦な日常に穴を穿つということ。

 口裂け女の出自は岐阜にある。僕はそれを、近藤くんの家で読んだ『地獄先生ぬ~べ~』で知った。『ぬ~べ~』の中にそう書いてあった。嘘かもしれない。それ以外の本で読んだ後づけの知識が混ざり込んでいる可能性は大いにある。けれど、『ぬ~べ~』の中に口裂け女が出てきたことは間違いない。僕はそのことを覚えている。その日のことを覚えている。もちろん本当はそうではない可能性は大いにある。僕はその日その時その場所を、覚えていると思い込んでいることを覚えている。
 夕方になると、町中にチャイムが鳴り響く。どこの自治体もそうなのかはわからない。僕が生まれ育った岐阜県羽島市では、日没が近づくと、市役所のスピーカーからチャイムが鳴り、それから童謡の「夕焼け小焼け」が流れた。子どもたちはその音楽を聴くと、遊ぶのをやめて家に帰った。
 僕は口裂け女を見たことはない。口裂け女に出会ったことはない。けれどもその日は、見たこともない口裂け女の恐ろしい顔が、頭の中に張り付いて、どうしたって振り払うことができなかった。近藤くんの家から僕の家までは、徒歩5分の一本道だった。大きな道路を横切り、公園を抜け、まっすぐ住宅街を歩いていけば、それで家に帰れるはずだった。何の変哲もない帰り道。子供一人でも危険は少ない。現に僕は、何度もその道を往復していた。その道は僕にとって日常そのものだった。けれどもその日だけは違った。「口裂け女は岐阜にいる」。たった一つのその情報が、慣れ親しんだ僕の日常を、それまでとはまったく違ったものに変えていた。口裂け女がいるかもしれないと思い込むことが、通い慣れたその帰り道を、異形の空間に変えたのだ。
 物語が現実を変えるという感覚を、一つの個人的な事実として、僕はそのとき初めて知ったのだと思う。

 夜がやってくる。
 それは僕らの時間だ。
 けれどもそれは永遠ではない。
 僕はそのことを、11歳の冬に知った。

 歩くことで、僕は僕の中に、多くの僕らをつくっていった。僕らが歩くたびに、僕らは増えていった。
 僕らは歩いた。一人でいるときも、僕は一人ではなかった。
 僕らは歩いた。
 僕らは歩いていた。
 僕らは郊外の街の中を歩いた。
 僕らは都市を歩いた。
 僕らは田舎道を歩いた。
 僕らは昼に歩いた。
 夜に歩いた。
 眠らない目で、霧のかかる朝の光の中を歩いた。
 川べりを歩いた。
 山の中を、森の中を、海辺の町を歩いた。
 僕らは母親と歩いた。
 父親と歩いた。
 姉と歩き、妹と歩いた。
 友人と歩いた。
 恋人と歩いた。
 僕らは僕らと歩くこととともに歩いていた。

 魔法がかかったように、すべての風景が折り重なり、前から後ろに向かって流れていく。
 本当に大切なことは書かれることはない。
 だから僕らは、物語を語る。
 僕らは僕らに魔法をかける。
 もちろん魔法は永遠ではない。
 やがて魔法は解けてゆく。

 僕らは知った。21世紀になった夜に、子供であることはいつか終わるのだと悟った。
 僕らは知った。「サティ」の先には何もなかった。
 僕らは知った。そこには舗装された国道だけが、のっぺりとした暗闇だけが、ただ退屈に広がっているのだった。
 僕らはそれを眺めていた。僕らはずっとそれを眺めていた。僕らはそれを眺めながら、自分がどんな気持ちをいだけばいいのか、うまくとらえることができなかった。僕らは途方に暮れていた。そうしているうちに陽が昇った。僕らは来た道をそのまま引き返した。真夜中の世界は僕らだけのものだった。たしかに僕はそう感じていた。

 やがて太陽が昇り切ると、僕らは世界から引き剥がされていった。

樋口 恭介

SF作家、会社員。単著に長篇『構造素子』(早川書房)、評論集『すべて名もなき未来』(晶文社)

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鈴木 理恵

写真家。愛知県出身。2010年武蔵野美術大学大学院 造形研究科デザイン専攻写真コース修了。現在東京を拠点に活動中。日常的に撮影をする中で、ファンタジーやSF映画のワンシーンからインスピレーションを受けた写真作品を編集し、展示作品や写真集として発表している。
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